社会より個人を大切にする世界観

生活のためでなく自己実現の経済へ

新時代の経営
 物心ついたころからなぜか世の中への違和感が強く、社会一般に対する不信感から強烈な反抗心を露わにしていたので、気難しく手に負えない少年時代だったようです。
 その違和感の根源が「個人より社会規範が上位にある」とする根底の信念体系=社会規範そのものへの根強い懐疑であることに徐々に気づいてきました。
 本来人間は「自由な魂」が本質なのに、生まれた瞬間から「こうあるべき」という様々な社会規範を繰り返し埋め込まれ、大人になるに従って、気づかぬままに「それが正しい」と信念化されていきます。
 個の昇華しきれていないエネルギーの行き場は様々な体制批判運動や、内面的には自己改革や研鑽に励んだりもするのですが、この底流にある透明になった(言及されることのない)「信念」のため、ますます鬱屈した自己欺瞞を露呈することになります。
吉本隆明は『共同幻想論』で「自己幻想と共同幻想は逆立する」と喝破しましたが、透明化した規範=共同幻想の本質に言及しない以上、様々な問題は、原理的に永久に解決しません。
30代後半、期せずして「経営者」の道?に入ってしまったので、この社会システム自体を〝絶対善〟とする共同幻想体系は「社会関係を維持・発展」させるためのものでは全くなく、本質的に人を「維持・支配」するために作為的に作られた教育的装置であることに気づきました。
弊社のように①資金ゼロ②人脈ゼロ③顧客ゼロから出発し、営業無視、銀行無視を〝是〟とする経営姿勢は、三次元的な難易度の問題ではなく、「排除」のバイアスが働きます。
世の中の紛争は、この規範(共同幻想)の枠組み内での利害関係を調整する機能しかなく、その結果は「勝ち組」か「負け組」かのいずれかで、このレースに「参加しない」という選択肢はないのです。
社会システムからのアウトローを経験した人なら感覚的に分かると思いますが、「個」を上位にしない限り、そこに究極の〝善〟は存在しません。社会規範は下部構造によって因果的に成立しているわけではなく、意図的に作られているのが見えるはずです。
このことに気づかない限り、どんな経営理念を作ろうが、成功者の経営哲学を学ぼうが、とどのつまり「今だけ、金だけ、自分だけ」の欺瞞を隠す方便にすぎません。
この幻想の本質に気づき、個と社会を逆転させると営業・経営戦略などを必要としないシンプルな(自分や仕事への)愛と誠実さが胎動し始めます。
弊社は、本音重視だから顧客と喧嘩することがあっても、仕事に対する手抜きは原理的にありえません。何故なら最高水準を追求し、保つことが唯一の「自己実現欲求」になるからです。この気づきは三次元の欺瞞を超え、ありのままを生きる風の時代(五次元)への足掛かりです。



大阪〝夕刊紙〟の思い出

美しい言葉の圧力よりアナーキーな自由さを

現在の見えない言論統制の狡猾さ
「新大阪新聞社」に在籍当時(80年代)は、〝夕刊紙〟という大阪特有の文化がまだ全盛で、暴力団の抗争事や芸能界スキャンダル、〝ピンクネタ〟など、かなりアナーキーな紙面を売り物にしていました。
戦後GHQの用紙の統制と地域紙育成方針から始まった新大阪新聞も、元々は毎日新聞の子会社で、「地元大阪の復興と地域文化の発信だけでなく創造の拠点になろう」と発刊当初の先輩方は崇高な理想を掲げて取り組んでいたようです。
他大手紙も同様ですが、毎日新聞が自社で夕刊を発行できるようになると経営権を、マスコミを利用したかった総会屋に売り渡し、紙面も急速に凋落していったという経過があります。その過程で開いた〝あだ花〟が大阪特有の夕刊紙文化だったのかもしれません。
以後、ライバル紙の一つだった大阪日日新聞の朝刊化(平成12年経営移転)を最後に大阪の〝夕刊紙〟は消滅しました。
30代前半、自分の労働争議解決を契機として、独立したのですが、今でも当時の編集局内の空気感をよく思い出します。
当時、新聞記者は〝インテリやくざ〟と言われていて、特に社会部「マル暴」担当にはそのまま当てはまっていました。ある日、先輩の記事を大幅に削除したら、府警詰めキャップから「ヤキ入れたるから後でボックスに来い」と脅されたりしました。
夕刊紙は駅店頭売りが主流なので、売れ行きが数字として直接現れるので、その日の一面担当デスク名が販売局長に毎日報告され、陰で評価されていました。
売れる紙面は記事内容ではなく、紙面の構築方法によります。整理部では記事に対する編集者意識(=読者目線)がいかに重要かを叩き込まれていたので、先輩であっても粗っぽく言い返したりもしました。
この時代のアナーキーさと視点の取り方は、今の生き方の基本になってしまったようですが、今より環境が劣悪だったわけではなく、何よりも自分で考えることの大切さを教えてもらったような気がします。
何度も書いていますが、現在のメディアは一方向に向かわせる闇の力が大きく働いています。例えば「民主的…」といった意味不明の言葉は感覚的に使われ、自分の頭で考える能力を麻痺させます。さらに不安と恐怖を巧みに利用して、反対できない詐欺的レトリックに誘導し、言論統制を行うのです。
ワクチン報道などはその最たるものです。「○○やめますか、それとも人間やめますか」というレトリックに選択権はないのです。



〝あおり〟に乗らない自分軸の確立

新・地球時代のコミュニケーション

社会の〝規範〟に従いますか
分の〝感性〟を信じますか
 コロナによる緊急事態宣言が断続的に発令されることによって、人々は多分に社会から分断されてきたように思います。
 この2年にもなろうとする長期〝謹慎状態?〟の中、先行き不安で落ち込んでる人が多い中、私の近辺には逆にこの状態を利用し〝ユルユル生活〟を楽しんでいる人も結構います。
 もともと、交流が少なく引きこもりがちな人もそうかもしれませんが、永らく流布され続けた規範や価値観から、意図的にドロップアウトしたような人にとって、如何なる情勢も、これからの生き方と行動のあり方を考えるチャンスでしかありません。
 この意図的ユルユル生活者は、その人が経済的に安定しているとかに関係なく、この世の中の茶番に気づき、いち早く自分軸を持ち始めた人だと感じています。
 私たちが、様々な課題を意欲的に解こうと自ら努力できるのは、それが創造の喜びに繋がることだけです。喜びは自然の愛の姿に基づきます。
 これに対して予め答えが分かっている(決められている)問題を与えようとするのはすべてプロパガンダで、最終的には必ず強制力が働きます。
 個人的問題であれ社会的課題であれ、予め問題を提供して、その答えを知ってる(決めている)権威やメディアから学ばせる関係構造を意図的に作り出すことが、この世の支配の巧妙なメカニズム。そのための手段が「恐怖」や「不安」です。
 学校教育から始まって、小さな仲間内の個人的な学習会や社会的には影響力の少ない井戸端クループにしてもほとんど同じメカニズムが働いていると以前にも述べました。
 理由は、パワーゲームこそがピラミッド社会の骨格だからです。ここを見抜かれて「そんなのカンケーネー」と自由な創造性を発揮されたら、支配者や支配者「脳」に洗脳された欺瞞小市民にとっての自己の存在意義が消滅します。ピラミッドの崩壊、これが彼らの究極の恐怖です。
 意図的か無意識かに関係なく、この心的操作こそが欺瞞(偽物の愛)で、このようなアプローチに乗っかると、どのような問題からも「覚醒」できません。
 一連のメディアの常套手段、「恐怖あおり」報道で、これまで維持できていた社会関係の一部が崩壊しているように見えますが、同時に鼻持ちならない義務的会合や学習会からも解放され、新しい社会関係としてリセットできる絶好の機会でもあります。
 ユルユルと自分の課題に取り組んでいる人に実際に聞いてみたら、主軸が〝正しさ〟より〝楽しさ〟。社会や他人の評価がどうあれ「自分大好き」と躊躇なく答えられる「感性力」です。
 「自分軸」の復権は本来人間に備わっている本質的「愛」=感性の究極カタチの解放だと思います。新時代のコミュニティはそうした自由の集合体で、〝マル〟の社会ですね。その胎動が今起こりつつあります。


手書き記録を考察【紙ブログ44号より】

多様性の時代は“自分のやり方”だけが価値

習慣に意味付けは不要
“共通項”探しは学びの罠

2013年8月に発刊した弊社社報「紙ブログ」ですが、紙面内容については社内で議論していて、一年置きぐらいで紙面企画を変えるようにしています。
 定期購読の皆さまは、お気づきかもしれませんが、昨年(2020年)新春号から、1面トップ記事は弊社代表・藤井の主張で、記事内容は仕事に直接関係のない、世相や日々の暮らし方に対する見解や仕事の手法など、至って主観的・独断的な考え方を掲載させていただいています。
 と言っても、肝心のテーマは私が決めるのではなく、経営コンサルタントを交えた弊社月例の早朝営業会議で、弊社スタッフが決めているのです。なので、書きやすいテーマもあれば、かなり整理が必要なものもあります。
 今回は『手書きメモ』がテーマ。いつも私が、早朝一時間を手帳の記録に費やしているのをスタッフが見て提案されたのですが、テーマとしてはかなり難しい部類です。というのも〝習慣〟に意味などはないからです。
 この習慣は30年以上になります。当初はビジネス一般の予定表付きメモ程度のものだったのですが、振り返りに非常に便利だったので、年々項目を増やし〝偏執的〟に詳しくなってきたということでしょうか?
 今では、この手帳一冊でほぼすべての過去の概要がわかるようになりました。カテゴリーはビジネス、家や家族の動向、友人関係、健康記録など、ほぼ日常活動のすべてにわたります。
 詳細は、公私問わず毎日の電話履歴や名刺交換した人物氏名肩書と会話内容の概略。また、読書や図書館記録と概要メモ。気づきや問題点なども、ペンの色を変えて記載しています。
手帳の事後利用例としては、ある事柄の数年単位の詳細な報告書や、関係した人物の足跡年表作りに威力を発揮したこともあります。
楽しいことでは、旅行時の行程履歴や出会いの内容、途中の記念スタンプも思い出の情景描写に一役買っています。
これが皆様の参考になれば幸いですが、論評は不要で、お勧めもしません。
多様性の時代に一番大事なのは「自分軸」です。良きにつけ悪しきにつけ、意味付けや他人との〝共通項〟探しは三角社会の罠で、〝指導〟と言う名の支配の道具に刷り変わります。多様性の時代は、〝教え〟ではなく『自分のやり方』発見だけに価値があるのです。(F)



世論誘導と言論統制から自立する時【紙ブログ43号より】

自分の感性を信じて真の情報に目覚める

個人とマスメディア
昨年春からの〝コロナ騒動〟、そして秋の米の大統領選挙から特に意識し始めたのですが、何かマスコミマスメディアの動きがかなりおかしいですね。

もともと、マスメディアの端くれ出身なので、昔から「報道の自由」などは存在していないことは分かっていましたが、昨年末から今年にかけて、かなり露骨に動きがおかしくなってきたと感じています。
インターネットが普及する以前の世の中の情報源は専ら新聞・テレビのマスメディアしかなかったのですが、最近はソーシャルネットの普及で情報が個人・団体を問わず、各方面から入ってくるようになり、かなり専門的な分野からの情報も意図的に探せば採れる時代になりました。
誰もが情報の受発信ができる時代になって、自由度が広がったように錯覚してしまいがちですが、情報の受け手がしっかりと意図をもって、〝情報を探す〟というスタンスがあった場合以外、ネット運営側の意図は全く逆の方向に向かっているような気がします。
既存のマスメディアの衰退はこのソーシャルネットの普及と関連するのですが、〝情報操作〟という点から言えば、両者が連携して、より如実になってきたように感じます。
SNSの意識的利用者の世界では「言論の自由」が封殺されているのは常識で、GAFAなどのビッグテック系のソーシャルネットは米国通信品位法の保護を盾に、軒並みマスメディア以上のあからさまな「言論統制」を行っています。
冒頭に掲げた米大統領選以降、「トラ〇プ」の氏名を含め、「不正選挙(証拠)」のテーマ自体が禁忌で、アカウントの凍結や永久停止、またはページの一方的削除が頻発しています。
それでも発信者は「寅さん」「ウメさん」(=梅田→ばいでん)などの造語を駆使しながら記事(や動画)を発信し続けています。
今年になってからはコロナ関連の言論統制がひどくなっていて「マ〇ク」「ワク〇〇」といった単語が〝AI〟にマークされ、専門家の学術論文であっても警告なしの強制削除が強行されたりで、書き手は〝言葉遊び〟で工夫し、読み手はパズルを解読するような状況です。
この動向は「新世界秩序」(NWO)という〝全体主義〟を目論むディープステートの最終意図から来ていますが、この極端すぎる動きは、〝目覚め〟が加速された時代の最後の足掻きにすぎません。
前号でも触れましたが、いかなる「社会規範」も源流は恐怖支配の装置であることをいち早く見抜き、個人の感性と創造性への目覚めこそが、これからの新社会建設の第一歩だと思います。(F)



世相にとらわれない自分軸の解放【紙ブログ42号より】

宇宙の風を感じ、人の空気は読まず

 かなり前(2004年)に『パワーか、フォースか』(ホーキンズ)という本があったのを、ふと思い出しました。内容は忘れてしまいましたが、今世界で起こっていることは、本当の「力」とは何かということが、今まさに問われている瞬間だと思います。
 これからの価値観の転換の時代、私たちはどう生きるのか。世界的なことではなく、身の回りの日常生活をもう一度見直すことで、変化の時代に何を指針にしていくかが見えてくると思います。
 起業して30年、仕事に関しては、様々な制約の中で可能な限りの最善の品質と、努力してお客さんの意図と状況を汲んだ最大限の誠実さでやってきたな…とやっと本気で自分を認め労い、評価することができるようになってきました。
 でも他の人は全く評価しないでしょうね。これは自分の中だけの話です。世間的な見方をすれば、営業トークも学ばず、時にお客さんと喧嘩もしたし、仕事を打ち切ったりもしてきました。それで反省しなければ、およそ「素直ではない」って言われますよね。
 お伝えしたいのは、新しい時代はそんな社会規範(ルールや慣習)を守るのではなく、自分軸の発見が一番大事な気づきです。
規範の存在は社会関係を円滑にする交通ルールのようなものだという考えはトリックで、その本質はパワーゲームの核となる“武器”であることに気づいたことです。
世の中は相互依存で成り立っているという幻想があるため、人は巧妙な駆け引きをします。
つまり依存関係を断つことの恐怖感をそぐため、規範を守るだけでではなく、それを他人への操作に使っているということです。
だから、「世の中はこうだ」という規範が一般的、支配的であればあるほど、立ち位置関係によって瞬時に優劣、上下感が心的に形成されます。戦略的に「相手に劣等感を感じさせる」のがサイレント・インベージョンの芽です。
どんなに美しい言葉や理念であっても「力」がそがれ、生命の躍動を感じさせないのは、「○○をせよ。さもなくば…」の心理戦争を、他人ばかりではなく、自分に対してもあらゆる場面で繰り広げているからです。そのことに早く覚醒して、真摯に自分の本心を認め、自分の力を取り戻すことが最も重要になります。
先日のジョージア州でのリンウッド弁護士の演説。これが激しい戦いの最中であっても、「愛」や「祈り」が究極のテーマになるってことがあるのです。そういう言葉が浮かぶとき、涙が出るほど感動します。(F)

(写真=モノリスの台地「生命の環」ノルウェー・フログネル公園)
2020年11月にユタ州の砂漠で謎の金属板(モノリス)が発見されたというニュースを見て、若いころ見たスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」を思い出した。人類の方向性の岐路に際して登場する宇宙的精神性のシンボルとして効果は象徴的だった。(モノリスの意味=塊状の岩や石からなる構造物)ユタ州の公開写真は金属板で「宇宙の旅」に見た物と同様の感じでした。



依存・恐怖から〝自分軸〟の復権【紙ブログ41号より】

自分の感性を信じて独自の世界を創る

古い社会規範の崩壊から始まる新しい時代とは
今の社会の状況を見ていると、少し前(2006~7年ころ)に、日本で「フリー・ハグズ」というムーブメントがあったことを、ふと思い出します。

 このムーブメントは2001年、アメリカのある人物が、母親の死後、人々に〝愛〟と〝絆〟を示す行動として「フリー・ハグズ」と書いたプレートを持ってマイアミの海岸を歩いたのがきっかけだそうです。
 ムーブメントと書くと何か運動理念のようなものがあったかのように想像しますが、当時はSNS(ミクシー)が普及し始めた時代、ほぼ自然同調的に広まったものだと思います。
 「街頭で見知らぬ人々と無差別にハグ (抱擁) をする」行為は、当時、あるいはそれ以前の行動規範(常識)には無いので、時代の小さな波として無視されていった感があります。
ただ、理性的には理解不能の人でも、人間視点からこれらの動画を見て、素晴らしい何か(愛・平和・本当の自分?)に涙が出るほど感じることができた人が多くいたことは確かです。
物事の価値判断は、時代世相に密着しているがために個人の行動を強制しますが、人間の本質的側面(霊性としての存在)は常にその呪縛からの解放を希求しています。
自分は以前から、満員電車に象徴する常態的な過密社会に強く否定的だったので、今はやりの『ソーシャルディスタンス』は清々しく感じるだけだけど、近代経済社会はこれ(密=量)を基盤としているので、システムの大きな転換を求められることになります。
〝コロナ騒動〟はその象徴で、かつて終戦直後の日本が経験したような(依って立つ)規範の崩壊を意味します。
そう考えると、時代を形成する社会規範に盲目的に従ったり、誰かに依存したりする生き方はもう限界にきていると思います。
最近色々な分野で『統合の時代』という言葉を耳にしますが、私流に解釈すれば、自分軸の復権? 個と社会の反転に近いです。
そもそも世の中の規範に従ってしまうのは、自身の感性を信じられない「恐怖」心から生じています。
新しい世代は、恐怖を手離して(統合して)、心地よいこと、腑に落ちることだけを基準にイキイキ生きる。こんな宇宙人?が、今、静かに増えているように思います。(F)



創業30年の節目を迎えて【紙ブログ40号より】

個人の意識が世界を創る時代

社会規範に惑わされずゼロ点から考えるコロナ緊急事態宣言発令中のこの春、フジイ企画は創業30年を迎えました。この時期に事業の節目を迎えるということは、私にとって結構象徴的で、意味深きことのように感じられます。
何にせよ、世の中の「規範」の大きな変更は、一つの時代の限界点に訪れるのであって、発生した社会現象自体に意味はなく、起こった出来事に一個人としてどう意味付けするかで解釈も対処法も正反対に変わってきます。
開業当初を振り返ってみれば、資金ゼロ、顧客ゼロ、人脈ゼロの「3ゼロ」からのスタートだったことは既にお伝えしましたが、そもそも、当時の世間的な開業の条件からは逸脱していたと言えますね。
基本がセールス嫌い、銀行嫌いなので、我流経営法しかなかったのですが、当時の世相もそれに付随する社会規範に対しても、常に懐疑的で人の意見を聞かない。だから、常にゼロ点から考えるのが癖のようになっていました。でも、よく潰れずにやってこれたことが不思議です。
当時、よく経営者仲間には「商売には一にも二にも人との交流が原点」と言われました。この価値観(規範)を今風に言うと『三密』のうちの少なくとも二つが〝命〟っていうことになります。ところが、今はそれがそっくりダメということになる。
自分の場合、仲間との飲み屋やスナック通いは30歳台後半で終了。もともと仕事がなくても積極的、計画的な営業はしなかったので、〝飲食を伴う接待〟などなく、ゴルフもしない。経営者団体の学習会などにはよく参加しましたが、40歳代以降は夜の交流はほぼ参加しなくなりましたね。
だから、この点だけを見れば、危機感も孤独感も感じません。

もちろん、この自己流スタイルには根拠はなかったので、長い間方向性を出せずに消耗していました。
最近、物ごとに意味付けする主体は「自分以外に存在しない」ことに気付いたことで、現象を観察することができ、見えてる出来事は茶番であると感じるようになりましたね。
この30年を振り返ってみて、最大の問題は、世間の常識に従わなかったことではなく、そんな中で通念に振り回されていた意識で、これがユルユルと生きてこれなかった元凶です。
今回の〝コロナ騒動〟は変化へのトリガーでしかなく、人間・社会関係のパラダイムがシフトし始めたことを意味します。つまり「永年にわたって続いた社会関係のあり方の不自然さ」が露呈されたということだけに意味があると思います。
そもそもこの騒動自体がナンセンス、その視点に立つと、コロナを前提にした今後の「予防策」や「新生活スタイル提案」などという〝ズレ〟た論議に耳を傾けたり、ましてや誰かに啓蒙されたりする必要性は全く感じません。
新しい時代は、ここを起点に個の拡張が世界を作っているということに目覚める時代だと思います。
だから、自分の立ち位置を忘れた「在宅勤務時代」や「AIの進行社会」などという話題に加わるのではなく、自分の幸せとは何かをブレずに自覚することが大事です。「密」とか「疎」とかに関係なく、人間社会にコミュニケーションが必須であるということに変わりはありません。(F)



早朝の喫茶店論【紙ブログ39号より】

一人だけの時空間の大切さ

もう何十年も習慣になっていることの一つに、早朝の『喫茶タイム』があります。
弊社の始業時刻は朝9時なのですが、通常は7時に一度出社して普通1時間30分、最低でも1時間は喫茶店で時間を過ごしています。
そこで何をやっているかというと、前日の活動の記録と見直しに結構時間を費やします。あとは読書、最近では登録してあるウェブ動画のチェック、自己流のイメージワークなどで時間を過ごします。一時間半はアッという間です。
休日は自宅から約20分の散歩コースを通って8時半ごろ行きつけの喫茶で約2時間、長ければ昼ごろまで(約3時間)一人で時間を潰します。
行きつけの店は何度か変化していますが、最近はいくつかの店に落ち着いています。
喫茶店選びの基準はタバコが吸えること、一人でも4人掛けのテーブルを占領できること、あとは、音楽など波長があう事ぐらいです。注文は珈琲のみで、無料でもモーニングサービスは利用しません。
あと、オープン時間が早いこと。職場でも自宅付近でも朝6~7時までにオープンしてる店は少ないです。
長年通って気づいた特徴は、朝の喫煙席の客は、休日でも男女問わずお一人様の常連客が多い。読書姉さんや、電源席のPCおじいさんなど、座る席もほぼ定位置。禁煙席は不規則。
また、早朝はどこも喫煙席の方が人が多いです。朝7時過ぎでも、禁煙席は客ゼロなのに、4人掛けが満席のことがよくあります。顔見知りが多いので「あんたテーブル広げるから」と席を替わってくれたりします。法律が変わる春以降はどうなるのでしょうね。

     ◇                    ◇

なぜ、この喫茶タイムが大事なのかとずっと自問していたのですが、もともといきなり仕事モードに入れないので、ゆったり時間をとるということは会社員時代からです。
でも最近意図的に思うのは、他者情報の遮断の時間です。人の行動の99%は孤独からくる「共依存関係」に由来する、つまり人や教えられた概念に縛られて生きている、と気づいたことですね。
ごく最近、バシャールという宇宙人?の『シバイの精神』という概念と出会いました。
Shivai(シバイ)と発音するこの一言は「私の突き進む道を誰も邪魔することは出来ない」という意味らしくて、最近よく言われる“ワクワク”に従って生きることの核となる概念です。
つまり、自分の信頼する親友や尊敬する知識人よりも「自分の信じることが絶対」と思える地点。これは一人の時間でしか生み出せないものですね。でもこれこそが創造性と絶対的平和の源だと感じ始めています。



〝最高の人生を生きる〟【紙ブログ38号より】

2020年春、創業30周年を迎えて

生きること=楽しむこと
 若いころは「映画館へ行く」という習慣はなかったのですが、最近は妻の影響もあって、よく出かけます。
 何事もそうですが、過去と現在の視点が大きく変化することってよくありますね。今回観た映画『最高の人生の見つけ方』もその一つ。必死で自分の存在位置を模索していた以前なら、スルーしていたような内容です。
 余命数か月の宣告を受けた女性2人。人生のほとんどを家庭のためだけに捧げてきた60代主婦(吉永小百合)と、仕事だけに生きてきた大金持ちの女社長(天海祐希)が病院で偶然に出会ったことからドラマが展開。
 死を待つだけの身になって、これまでの人生に空しさを痛感した彼女らが、たまたま手にした、12歳の少女が書いた「死ぬまでにやりたいことリスト」。二人は残された時間をこのリストに書かれたすべてを実行することを決意する。
リストの内容は、日本一の巨大パフェを食べるとか、スカイダイビング、エジプト旅行、『ももクロ』のコンサートでステージに上がるなど、これまでの人生で思いもしなかったことを実行するうちに、大事なことに気付き〝魂〟の奇跡が起こる。この気づきとは?…

経営理念より大事なもの
 恥ずかしい話、最近まで気付かなかったのですが、弊社は今年で創業30年を迎えます。今さらながら、「よくここまで保ってきたな」と思う一方、大きな回り道もしてきたような感があります。
創業時、仕事自体は職人的?に好きでしたが、特別な夢やビジョンもなく、状況的に独立しか選択肢がなかったというのがほぼ正確な経緯です。
 資金ゼロ、顧客ゼロ、社交性なし、コネなし、しかも「営業大嫌い」「銀行とは付き合わない」という変な信念もありました。およそ世間的な意味での独立起業の要件は皆無でした。
 当初は、そんな状態で多くの不安も抱えていたため、経営の勉強をしようと思って経営者団体に入ったり、成功法則の本を読んだり、数年は結構真剣に勉強しました。
 そこで「経営理念」の重要性や「企業の社会的存在意義」、「感謝主義?」、「顧客第一主義?」など、今となれば雑多な〝観念〟も詰め込んできたのですが、一つ、何よりも大事なことに気が付いていませんでした。
 その結果、マイナス要素の発掘と〝ジャッジ〟のプロになりました。特に人材教育については心で「うちは大丈夫」と感じつつも、こじらせていましたね。
 今思えば、これまで弊社を通過したスタッフは低賃金でありながら、不思議なくらい全員が前向き人間でした。だけど、社内の空気も悪く、業績も一新一進一退が相当長く続いた(と思っていた)のです。
 ある時、問題は依存主義(=セミナー依存や他者の経営理論に当てはめる思考)にあると気づきました。そこで、どんなに人が推奨しようと、自分の本音に反するものはしないと決めて、孤立を覚悟で我流を通すことにしたのです。
 
 何より自分を信頼すること
 変な理念(ジャッジ)を手放してみると、いかに見えていなかったかに気づきました。僅かながらも業績はアップしていること、スタッフも思った以上に育っていること。今は経営者業だけに専念できてること。
「何も問題はない」。
恐怖の自我を

超えた時、魂の声に奥深い感謝を感じます。
構造的な不況業種であるこの業界で、関係業者や仲間が頑張りながらも次々消えていく中、頑として我流を通すことに恐れや罪悪感も感じていました。しかしこの〝罪悪感〟は不要だったと、最近やっと気付きました。
いつも振り出しに戻していたのは、この恐れからの行動が元凶で、この30年間、よく考えてみると、「いつでも業績は改善しつつあった」のです。

 さて、最後の旅に出た女性二人が大事なことに気付き〝魂〟の奇跡が起こった、この大事な気づきとは何だったのでしょうか。楽しさとワクワク感。これがエランビタール(命の躍動=愛へ導くもの)だと思います。自分を否定せずに「自分のやり方でいい」。もっと言えば「やりたいようにだけやっていればよかった」のです。
 恐れを超えて自分を信頼すること。徹底的に自分との対話ですね。その中に見えて来るものが命そのもの。人生は同行二人。
 世間的な倫理や、〝理〟にかなった(ような)他人発の〝成功法則〟はどれだけよく見えても、自分のものではないですね。まして他人と意見交換する性質ではないのです。

このドラマって、現代版「お遍路さん」哲学?。これまで気づかなかった究極の成功法則が見え隠れします。
 この女性二人は死ぬ前に最高の気付きを得たのだけど、自分は、死ぬまでにもうちょっと研鑽時間がありそうです。でも死ぬ一秒手前でも十分です。
新たなパラダイムを迎えた2020年、もうこのゲームも限界かも知れません。新たな飛躍を楽しみながらいきます。(『紙ブログ38号』2020年新春号)(写真下=潜伏キリシタンの里「頭が島」)