がんの精密検査を拒否して…『神秘』とのシンクロニシティ

 2014年をちょっと振り返ってみれば、自分の身の回りに関する二つの変化=出来事があった。一つは身体問題でもう一つは経営の行き詰まりに関する課題だ。この二つの変化は出来事としての関連はないが、その他のことも含めてこの一年はけっこう明晰な気づきの場を与えてくれたように思う。

 
 一昨年には持病の喘息で20数年ぶりに入院した。この年は、前後してそれぞれ別々の健診で2種類のがんを疑われ、うち一つは入院を要する精密検査だ。果ては「認知症」まで疑われた。今まで喘息以外で体のことで意識したことがなかったのだが、〝心〟とはやっかいなもので、還暦前という年齢に直結させてしまって、不安と動揺を与えた。
 
 そもそも「安心などは買うものではない」という意識が強いので、結局すべての精密検査を拒否することにしてもう一年以上になる。ただ不安が全く消えたわけではなく、この秋、便の出が悪くなったのを機に町医者に行ったら、病院での精密検査を強要された。だがこの一連の騒ぎで逆に吹っ切れた。(この期に及んで…という感もあるが)〝信念の構造〟をもう一度学び、〝視点の位置〟を変えることで、ようやく起こっている事象の見え方と対処の仕方が変化した。再度「何もしない」と決めたのだ。
 
 その視座から見れば、この年の経営不安も含めた別々の変化=出来事が連動して独自の〝意味〟を構成しているのがわかるようになる。その立ち位置を維持すれば、不安が消えて周りの景色がカラフルになり、気分が前向きになっていくのを感じる。今も下腹部に痛みを感じているが、それ以上に(それがあるから)前向きに進もうと思える位置だ。
 
 そんな折、白石一文の『神秘』という小説に出会った。自分にとっては凄いシンクロニシティを感じて、この正月は久しぶりに読書に耽った。
 
 物語は、膵臓がんの末期で〝余命一年〟と突然宣告された五十三歳の出版社役員が、在籍中の月刊誌の編集部に、二十年前たった一度だけ電話をかけてきた、顔も連絡先も分からない自称超能力者の女を、全てを捨ててさがす旅に出る。そこで様々な神秘としかいいようのないシンクロニシティを体験するというものだ。
 
 といっても、オカルトやいわゆる〝スピ系〟オタク好みの現実離れした体験の中から病気が治癒していくといった類の話ではない。そんな話は実話ならいざ知らず、小説としては茶番ですらない (実話であっても何の意味もないが)。事実、物語には病気が治癒したかどうかは記されてはいない。
 
 『神秘』のエッセンスは、〝死の宣告〟と同時にこれまでのしがらみを捨て、旅にでるうち、今までは風景でしかなく無関係と思われる人々が関係づけられ、ある方向へ導かれていく…というものだ。それはこれまでがむしゃらに立ち向かってきた世俗としての自分と、会社や崩壊した家族との絡みを、これまでと違った視点から見直していく旅になっていく。
 
 この旅は目的も方法論もない。つまりどういう展開になるかわからない羅針盤のない旅なのだが、主人公は「私の身体は消滅へ向けてひた走っているかもしれないが、私の心は今こそ私自身に向かって歩んでいる」と感じ始める。この視点は告知以前にはなく〝死の宣告〟という出来事を起点に初めて獲得し得た視点でもある。つまり手放した=委ねたことによって過去を含めた人生総体が、本来あるべき方向に徐々に動き出すプロセスなのだ。
 
 主人公はもともと旅の最初から「生きたい」とは思っているが「死にたくない」とは思っていない。つまり〝生きる〟ベクトルを持ちつつ〝委ねる〟(しかない?)ことで最後には新しい地平に辿りつくのだ。終盤には「(自分の中にある?=私注)存在にすべてを明け渡すとき、私は『私』でなくなる。自分自身を完全に預けたとき『私』はもはや存在しない」と感じる


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