新しく組み立てること『自分の信念を扱う』

『全ての変化は良い方への変化である』

daiji-kokoro 2012年ころから「起こってきた」自己改革の意識。それは、自分の『信念』の総点検という形で進んできた。ウォルシュの『変えれば変わる』は2009年出版だが、久々に昨年から再読に挑戦。今回は「完全に理解して実践」するため、いくら時間がかかってもいいからゆっくりやろうという意識が芽生え、一冊読むのに半年以上かかっていて、まだ終わっていない。

 変えようとする『信念』(自分にとって根拠のない思考)とは何か。まずは前提としたのは自然に「やりたい」事=仕事だけを選び、楽しくすること。まだクリアできない理由づけが多すぎるが、それ以外を変化させることに取り組んできた。後の1~2年はそのことで流れも少しづつ変わり、当初は仕事の面でのマッチングやシンクロを通じた変化が起こり、当初のイメージ通りすすんできた。

 しかし、石の上にも3年…というが、それを前後した昨年後半以降は良い変化より、「悪い」変化が立て続けに起こってくる。つまり、この変革イメージの礎として「ここだけは死守すべき」と思っていたことが急激に崩れていく。例えば、再構築の基盤にしようと考えてきた現在の優良顧客の離反。また確固たる実績のはずがその意味・価値を全否定させるような出来事など。これでは、そもそもの変革のよって立つ基盤自体が消滅したようなものだ。しかもこのようなことは過去に経験したことはない。

 ここが『信念』というものを扱う醍醐味かもしれないが、昨夜ちらっと見たテレビ「プロフェッショナル仕事の流儀」で俳優・渡辺謙が、常に新機軸に挑戦するなら「これまで培った技術やキャリアや名声の全てをチャラするつもりで、新たに取り組むしかない」と言っていた。その一言が触媒となって、一挙に事の真相に迫ったような気がした。これこそが、変化の時代の取り組み方の基本だということだ。全てを失うかもしれないことを前提にするしかないなのだ。しかも失ってもいいのだ…と。

 予想外の事が起こるたびに、いつもの「思考癖」で一連の出来事に対しての「分析」が頭の中で自動的に始まる。その「分析思考」のスタンスはいつも「この結果を避けるためにしておくべきだったことは…」だ。だが今回は、その出てきた根拠を思いつくだけ手帳に列挙して、全て「根拠なし」として×印をつけた。なぜなら「しておくべきだったこと」は、当初からおぼろげながらでも「必ず」知っていたことだ。知っていたのに「しなかった」。だが、知っていたこと=「知識」と言われるものこそ、情緒的で出所不明の「信念」だと気付いたからだ。正誤善悪などは関係ない。この『信念』自体が心に巣食うガンなのだ。ならば物事を進めるには、これを発見してここを変えることなのだ。従うのではなく…。

 さらに重要なのはこれらの一連の最悪(と自分が判断する)出来事で、理性に隠れた「自分で気付かない」古い信念に「気づいた」ことだ。つまり失った(と思う)出来事とは、その変革に不必要な「古い信念」が心の中にあるということだ。消す必要のあるのは出来事ではなく「古い信念」のほうなのだ。だから理解不能の出来事が起こるのだ。それを発見するために。理性はこれを避けるために古い思考を繰り返すが、魂は開放感を味わう。そもそも変革する必要がなければ、そんな出来事は起こらない。つまり「信念を変える」とはそういうことなのだ。この道程はわが神の壮大な計画なのだ。
『全ての変化は良い方への変化である』



がんの精密検査を拒否して…『神秘』とのシンクロニシティ

 2014年をちょっと振り返ってみれば、自分の身の回りに関する二つの変化=出来事があった。一つは身体問題でもう一つは経営の行き詰まりに関する課題だ。この二つの変化は出来事としての関連はないが、その他のことも含めてこの一年はけっこう明晰な気づきの場を与えてくれたように思う。

 
 一昨年には持病の喘息で20数年ぶりに入院した。この年は、前後してそれぞれ別々の健診で2種類のがんを疑われ、うち一つは入院を要する精密検査だ。果ては「認知症」まで疑われた。今まで喘息以外で体のことで意識したことがなかったのだが、〝心〟とはやっかいなもので、還暦前という年齢に直結させてしまって、不安と動揺を与えた。
 
 そもそも「安心などは買うものではない」という意識が強いので、結局すべての精密検査を拒否することにしてもう一年以上になる。ただ不安が全く消えたわけではなく、この秋、便の出が悪くなったのを機に町医者に行ったら、病院での精密検査を強要された。だがこの一連の騒ぎで逆に吹っ切れた。(この期に及んで…という感もあるが)〝信念の構造〟をもう一度学び、〝視点の位置〟を変えることで、ようやく起こっている事象の見え方と対処の仕方が変化した。再度「何もしない」と決めたのだ。
 
 その視座から見れば、この年の経営不安も含めた別々の変化=出来事が連動して独自の〝意味〟を構成しているのがわかるようになる。その立ち位置を維持すれば、不安が消えて周りの景色がカラフルになり、気分が前向きになっていくのを感じる。今も下腹部に痛みを感じているが、それ以上に(それがあるから)前向きに進もうと思える位置だ。
 
 そんな折、白石一文の『神秘』という小説に出会った。自分にとっては凄いシンクロニシティを感じて、この正月は久しぶりに読書に耽った。
 
 物語は、膵臓がんの末期で〝余命一年〟と突然宣告された五十三歳の出版社役員が、在籍中の月刊誌の編集部に、二十年前たった一度だけ電話をかけてきた、顔も連絡先も分からない自称超能力者の女を、全てを捨ててさがす旅に出る。そこで様々な神秘としかいいようのないシンクロニシティを体験するというものだ。
 
 といっても、オカルトやいわゆる〝スピ系〟オタク好みの現実離れした体験の中から病気が治癒していくといった類の話ではない。そんな話は実話ならいざ知らず、小説としては茶番ですらない (実話であっても何の意味もないが)。事実、物語には病気が治癒したかどうかは記されてはいない。
 
 『神秘』のエッセンスは、〝死の宣告〟と同時にこれまでのしがらみを捨て、旅にでるうち、今までは風景でしかなく無関係と思われる人々が関係づけられ、ある方向へ導かれていく…というものだ。それはこれまでがむしゃらに立ち向かってきた世俗としての自分と、会社や崩壊した家族との絡みを、これまでと違った視点から見直していく旅になっていく。
 
 この旅は目的も方法論もない。つまりどういう展開になるかわからない羅針盤のない旅なのだが、主人公は「私の身体は消滅へ向けてひた走っているかもしれないが、私の心は今こそ私自身に向かって歩んでいる」と感じ始める。この視点は告知以前にはなく〝死の宣告〟という出来事を起点に初めて獲得し得た視点でもある。つまり手放した=委ねたことによって過去を含めた人生総体が、本来あるべき方向に徐々に動き出すプロセスなのだ。
 
 主人公はもともと旅の最初から「生きたい」とは思っているが「死にたくない」とは思っていない。つまり〝生きる〟ベクトルを持ちつつ〝委ねる〟(しかない?)ことで最後には新しい地平に辿りつくのだ。終盤には「(自分の中にある?=私注)存在にすべてを明け渡すとき、私は『私』でなくなる。自分自身を完全に預けたとき『私』はもはや存在しない」と感じる


こころの中の今ものこる『貝塚少年保養所』

 閉鎖後の大阪市立少年保養所(と大阪市立貝塚養護学校)の訪問記を2011年9月にブログに書いたのがきっかけで、色々の方からコメントをいただいたので、その後記などを書いている間に何人かの方々とお友達になりました。その中には『是非もう一度見たい』ということで昨年10月末にその方と再訪問することに(40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)。この本の著者、小説家の南川泰三さんはこの時、小説のために古い時代の(昭和32年ごろ)の保養所方の証言や資料集めをされておられました。

 今回、このブログから出会った、私と同時期(1968年)に結核で入所されていた村田さんが、この南川泰三氏が『貝塚少年保養所』を暮れに発刊され、購入されたとフェイスブックに報告しておられたのを知って早速、自分も堺の図書館で見つけてきて一気に読みました。
 
 貝塚にある『大阪市立少年保養所』は結核予防法による小児結核療養所としてスタート。その後の高度成長の影響で小児喘息が増え、1967年に喘息棟(つくし寮)も併設。1992年に保養所はすべて閉鎖になりました。(貝塚養護学校と寄宿舎は2008年まで存続)
 この本の舞台から一巡り(12年)後の私たちがいた1968年当時には木造の結核棟は小説のままで、入所者もまだ多くいたような記憶です。私たち「つくし寮」生にとって、結核病棟の人とは学校で会える軽度の人だけで、この時期在籍していた村田さんとも当時は出会っていません。
 
 南川さんの小説『貝塚少年保養所』の冒頭にある大阪阿倍野からタクシーで貝塚の『入所』に向かうシーンは、辺鄙だけど美しい田園風景を一部では感じながらも、希望に満ちた13歳の少年ではなく、「落ち武者のような」重い気分を背負った当時の自身の心象風景と重なり、非常なリアリティを感じました。
 
自分の体験と重ね合わせて…
 ここに書かれているエピソードの多くは内容こそ違え、私自身が寮生活で体験してきたこと彷彿させる内容で様々なことを思い出します。これは私の体験の一部です。
 ひとつは、身近な僚友の「様々な形の死」の体験。寮生活しか知らなかった長期入所解放(卒業)された直後の死。また、今でいう“イジメ”問題のあった子の突然のショック死(原因は不明)。そして自分へも死神がやってきて意識が朦朧となるなか、死とはこういう感じかと感じていたこと、そして危篤の知らせで駆け付けた母が面会せずに帰ったと後に知らされた体験など。
 日々の生活では、ここでは書けないけど療養生活とは程遠い事件や、ほろ苦い話では、結核の重症棟にいる女子に一方的に恋心を寄せて、一日に一度だけ昼食時に渡り廊下を渡ってくるのを寮の窓から毎日見ていただけだが、なぜかそれがバレていたのに接触するすべがなかったことなどもありました。また、クラスの女子ら5~6人が集中豪雨後の学校から離れた池に遊びに行って一度に3人が溺死(これ小説の脱走事件を彷彿させる)。この溺死事件の直前には、私に関係する女子との『事件』もあったので非常に整理のつかない思いをしました。
 
 これらのことは日々の生活ではほとんど封印していますが、でも思春期のたった1年未満のこれらの体験は濃厚ではあったけど、今考えると、純粋な精神のなかのほろ苦い記憶でしかなく、本当はそれなりに結構楽しいものだった筈なのです。ただ良い意味でも悪い意味でも後の「生きること」を考える原点になっているのは確かで、これからも、まだ取り組み続けたい課題です。
 
 この小説『貝塚少年保養所』は私たちにと関係する一時代の歴史の『確かな証言』記録です。


何年ぶり?時を動かした記念撮影(大阪市立少年保養所『つくし寮』)

  もう40数年前お話になりますが、中2の時に1年間(正確には11ヶ月)だけ在籍していた大阪市立少年保養所。結核棟から喘息棟中心へと変遷して1992年に閉鎖されていたそうです。

 併設の大阪市立貝塚養護学校が2009年に閉校になるまでは、ここは通学路を閉鎖していたため敷地内にはなかなか入れませんでした。
 
 「時の流れに…」は2011年11月
 養護学校閉校後の一昨年の2011年11月、一人でその跡地を訪問。通学路の閉鎖部分がかなり甘くなっていたため、敷地内だけでなく『つくし寮』内の写真も取れたので『廃墟の旧大阪市立年保養所「時の流れに…」』というブログ記事を書きました。「時の流れに…」はつくし寮の詰所の上に貼られていた詩のタイトルです。
 
貝塚養護学校閉校後、保養所は急激に荒廃が進んで…
 先のブログは今からちょうど2年前の話ですが、このブログをアップしてから、同窓の方や関係のある方を中心に、今でも細々とコメントの書き込みが続いていて、同世代の方とも交流出来つつあったので、その後の報告のため最近(2013年9月)再び一人で訪問しました。今回は通学路が開放状態になっていて、侵入者も多いのか急激に荒廃の度合いが進んでいました。ただ『つくし寮』をはじめ、施設はまだ取り壊されていませんでした。
 
『40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)』
 今回は、この報告『大阪市立少年保養所「つくし寮」まだありました』というブログを書いたあと、初対面の『ヨロジ』さんと「取り壊される前に是非とも一度行こう」というお話になり、ご報告のとおり10月26日に決行。今回は「一人で訪問するには寂しすぎる」この地に、複数の人と、しかもブログでご縁になった方とここを訪問できて、とても不思議な気持ちでもあり、感無量です。
 
なんとしても『記念撮影』を
 このツアーに先立ち、「寮内で記念撮影を」と決めていたので、倒れていたロッカーを台にタイマーをセットして記念撮影をしました。
 これまで『廃墟探訪サイト』には廃墟写真や外観写真はあっても動きのない無人写真ばかり。ここ数年、この寮内で記念撮影をした人がいたでしょうか? 多分私たちだけかもしれません。一人だったらこんな写真撮る気しないものね。子供時代に走りまわった廊下やホールは何年も時間が止まってたけど、今回の訪問で、少しだけ時間を動かしましたね。

写真=『つくし寮』1階の旧2号室(女子部屋)前。後方は詰所・ホール、突き当たりが旧食堂方向)。2013年10月26日撮影。


40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)

 閉鎖されて久しい貝塚にある大阪市立少年保養所(併設の大阪市立貝塚養護学校は数年前までありました)。一昨年(2011年)に私が書いたブログがきっかけで、いろんな方からコメントをいただきましたが、今回このブログで親しくなった友人と、不思議なご縁で、一昨日(1026日)夫人同伴で一緒に訪問することに。

 今回一緒に訪問するきっかけは、9月25日私が一人で散策してきたことを、ブログ『大阪市立少年保養所「つくし寮」まだありました』UPしたことから。この土地は2年前、大阪市が貝塚市に売却して以降、廃墟の度合いがますます進んでいたけどまだ残っていました。でも「いつ取り壊されてもおかしくないね」というお話からです。

 一緒に行かれた方はヨロジさん(ニックネーム=どなたかご存知?)です。お会いするのは今回が初めて。同時代人なのですが、年齢も学年も在籍年度も違うので、当時は重なっていません。とはいえ在籍は1年違いです。(ヨロジさんは1968年度で在籍一年で当時小学校の5年、私は1969年の在籍11か月の当時中学2年) まず共通の友人探しからの交流でした。ヨロジさんと私の共通の友人は34人で、そのうち2人は私の在籍中に亡くなっていました。

 「取り壊される前に是非とも一度見てみたい」…。今や『廃墟探訪サイト』の餌食になっている所で、一人で行くのはあまりにも寂しいのと、わざわざ愛知県からこられるので、それまでに旧友を探してみようという気持ちも私にはあったので、一緒に同行することにしました。

 やっとたどり着いた『つくし寮』は昔、走り回っていたホールや廊下はそのままなのに、永い時間、人の動きがなく瓦礫となって完全に時間が止まってました。今回は4人でワイワイしゃべりながら訪問したことで、ほんの少しだけ、ここの時間を動かしたような気分に…。瓦礫になった寮室の前で記念撮影したのは私たちだけでしょうか。どなたかまた情報を!

 初対面のご夫婦と『廃墟探訪』など初めてで不思議な経験でしたが、お会いできてうれしかったです。

(写真は今回はもとうに取り壊され、建て替えられた結核病棟の跡地で。バックのこの建物は最新モダンなもので、当然私たちは知らないものです。見ている方角は『金太郎寮』方向。『つくし寮』内や施設内の写真は掲載しません。また個別にお送りします。)



大阪市立少年保養所『つくし寮』まだありました

  大阪市立貝塚養護学校が廃校になって以後、2011年9月に少年保養所を再訪問した記事を同年11月にUPしましたが、その後、同窓の方々が見つけられて、たくさんのコメントをいただきました。特に同時代(1969年前後)の方々からのアクセスには、消息や当時の話題で盛り上がったりしました(でも当時はスレ違っていて面識ないのが残念です)。今でも細々と書き込みがあります。

 きょう(10月13日)、久々に泉南方面に行く機会があって、久々に覗いてきました。その年(2011年)に大阪市が貝塚市に売却したので、もう再開発されていて、なくなっているのでは…と思っていたのですが、養護学校も少年保養所も残ってました。ただ廃墟の度合いが進んでいて、今の撮影位置にいくにはかなりコツがいりました。(写真2013.10.12=『つくし寮』正門)
 



『自分暦』で生き方の方向を見つけて

自分の宇宙だから停滞もまたOK
  2008年は、この2~3年の冬眠状態から、僅かな新しい芽を感じ取ることが出来た一年でした。 一般的に常識だということには、良いと言われていることでも絶対に従いたくないという、根っからのへそ曲がりの性格が2008年は特に強調されていたのですが、前年から計画していたブログと新しいホームページが数年の難産の末スタート、本当に数年ぶりにリニューアルしました。方向性が安定しているわけではないけど、この一年ブログなどをやってみて、人に対してではなく自分を整理することになることを知りました。永い停滞も自分の宇宙だから、これもOK。(本当はもっと伝えるようにしなければ)  年初は、前年末に始めたヨガとの出会いで、自分の内側と対話することに集中して本当に大きな宇宙を体験しました。実はもっと続けたかったのですが、師と自分の内なる声が相反することになってしまい、内なる声に従って同行二人で歩んだ一年でした。

『私暦の2008年』は3年1サイクル12年周期のスタート
 私は何十年来、手帳に様々な記録を残しているのですが、2002年にここ十数年の主な変化を年表に書き出すことを突然思いついて、主な出来事と変化を年表にして書き連ねてみたら、3年1サイクルの12年周期という規則性のなかで変化が起こっていることを発見しました。それで思い出す限り過去(小学生くらいまで)に遡って作表してみたけど、やはり法則性があり驚きました。(でも生まれ年をゼロとした周期ではないのが不思議です)。そして一昨年の3年1サイクルの終了時に再び年表を書き直してみました。この流れでいくと、昨年2008年は私にとって12年周期のスタートの年に当たっていて、2005~2007年の超低迷は、次の12年の準備ということになるだろうと思っています。(でもこれは自分で見つけた仮説なので誰にでも当てはまるかどうかわかりません)

何も変えずに、内なる世界を感じる
 日々の生活は道徳的でもなく、性格など全く変わってない。仕事も一進一退で反省もせず、2008年はそれでも自分のやり方で押し通しました。世間的に見たらダメ経営者の典型でしょうが、人の意見で行動するより、わずかな方向性の変化を感じ小さな芽を育てることが大事だと、頑なに信じています。世間的自我のすごい批判の嵐のなかで確かな(内なる)声を聞き続けるのは大変なことですが、それでもそれが唯一の自分の正しい道、もっと楽しんで、委ねて、遊んで、そして怒り狂って…。なぜなら、生きることは波動としてのリズムを感じることだと思うんです。高低のリズムでしょう。それにはどんな自分でも許し続けたいのです。これって想像以上に難しいのだけれど…。自分のオリジナル暦『変化2年目』の風の変化を肌で感じたいと思います。2009年はもっと息吹を感じ取るように内なる世界にアプローチする時間を大切にしていきたいと思ってます。



生きながら千の風になる瞬間

自分でもよくわからないけど…
 このカテゴリーはMIXIにも掲載してのですが、「何が言いたいのか分からん」と言われることが多いです。実は私自身も、わけ分からないのです。ただ、ヨガやら瞑想やいろんなものを取り混ぜて、自分の内側内側に意識を集中していくと、エネルギーが渦巻いているのを感じられるようになって、徐々にそのエネルギーが反転して外側へ外側へ宇宙へと広がるように感じられるようになってきました。そしてそこに入った瞬間は、自分という形がなくなり、全てが一つになるという感じが少しわかるようになりました。色即是空空即是色…量子状態になっているような感覚です。でもそこから意識を日常に戻すと自己という頑迷な意識が現れ、たった今の現実がある(創造される)といった感じです。きっちり戻ってしまうんですよ。

『2001年宇宙の旅』に感じる
 これを書いていてふと思い出しましたが、昔スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』という映画がありました。これ1968年の作品なので、今思う40年前の作品なのですね。謎の石版“モノリス”が中心テーマを構成しているように思うのですが、そのラストでフルカラーの嵐のような渦巻きの中を通過したあと、最後に文明の象徴ともとれる分厚いメタリックの構造物“モノリス”が立ちはだかっていた…というラストシーンで終わります。ちょっとこの感覚に似ているかもしれません。

どんな人のどんな信念も正しく
 量子物理学が発見した世界…精神の混沌?(波動状態)のなかから、何にせよ、意識を向けることによってそれが創造されるのだ…ということは法則であって真実のようです。だからマーフィーやらナポレオンヒルなどの成功哲学は理にかなってるのですね。ただ厄介なのは、信念が現実を創造する以上、どんな考えを持ついかなる人の信念も全て正しくて、真実として創造されているため、評価や論争は全く無意味だということになります。だからこそ、これは徹底的に自分だけ、一人の世界であるべきなのです。この世界には関与すべき他者など存在しません。

『導師』は自分以外にはない
 その信念の世界を現実(と呼ぶ)世界に持ち込んで論じると、次元が違うのでややこしいことになってしまいます。方法やらプロセスやら指導者が大事になって排他的になり、挙句の果てにカリスマやカルトを生み出してしまうのです。この現実世界は個別化(物質化)した世界なので他者に自己を投影するのはある意味で当然かもしれません…。結局『導師』は自分以外にはないのです。だから、ここで書いていることは何一つ証明することもできないし、全てたわごとに過ぎないのです。ただ内に生命の躍動を司るエネルギーだけは確かにあって、そこに一瞬でも触れると解放感と感動を確かに感じることができます。



嵐の向こうをながめる

 ここのところ、仕事の方向性の課題もさることながら、団体や組織に関係すること…つまりは人との課題ばかりが発生して相当参っています。それに意識を向けているせいか、かなり酷い落ち込みを感じています。トラブルやもめ事の処理というのは一番苦手とすることで、やはり、自分の性に合わないことには出くわすべき(?)でなかったか…と思うことがあります。

 ただ、自分に起こっていることは、自分の外部に発生していることではなく、自分の心に発生しているのだというパラドックスの法則を実は知っていて、自ら好んで起こしているというフシがあるのに少し気がつきました。つまり心の中の一人相撲なんですよ。それを垣間見るとすごく不思議な感覚を覚えるようになりました。

 いつもの日常的パターンの感情の嵐は今に始まったことではなく、子どものころから自分にへばりついて、ことあるごとに自分を悩ませてきたのですが、それが本当の自分ではないと気付くところまで内側へ意識を引くと、自分の宇宙が急に反転してすごく解放されるのを知って、こんな時こそ自分でアレンジした瞑想(…かなんかわかりません)を試すのにはにもってこいのタイミングだと思ってあれこれやっています。

 なんとなく、穏やかでうまくいっている時というのはなかなか試せないしね。でもこの状況、自分にとって、どう転んでも今までの生き方(というより物の見方)を変更せざるを得ないところにきたようです。変更といっても何かをするのではなく、見つめ続けることだけですけどね。

 いずれにしても、これ一人の道だしね。『精神世界』やら『ニューエージ』やらという言葉が嫌いで、教えてもらう師匠もいません。誰にとってもそうだと思いますが、自分に起きてくることは自分だけの経験であって、我一人の宇宙です。

 うまく表現できてませんが、久々書きました。今は心の地平線を広げて、それを広げていこうと思っています。



ドラマを終える日まで…

できる限り人生を豊かに描いていくために

本当は脚本家だけが知っている
 つい最近、一時期一緒に頑張ってきた人が亡くなり、お通夜に行って来ました。こういう場に臨むといつでもそうですが、その人の人生にとって、我々がどういう役割を担っていたのかとつい考えてしまうのです。この場に集まってる人は亡くなった人の生前のドラマに出演してきた登場人物で、家族の方や仕事関係や様々な役割を担ってきたのだろうけど、『頑張ったね、苦しかったね…』と思うのは道半ばのこちら側が感慨することで、ドラマを書きあげた脚本家だけが本当のことを知っているに違いないと思うのです。

良い人であったり、悪役を演じたり。これも必要で必然なこと
 思えばこの数年で、父も母もあいついで亡くしました。身内の死に際して感慨することは、いつも茶番劇を演じて、人を憎んだり、悲しんだり、喧嘩もしながら、でも一つの章が終わってみたらみな戦友だった…なんて感じること。その時その時で役割を変えながら、ある時はいい人であったり悪役に回ったり。あまりに真剣に演じ続けて本当の自分を忘れてしまうのですね。やっぱり究極はどこまでも『愛』を見つけることのために生きているんだなと感じています。

出会うどんな人も自分の人生の大切な脇役となって
 この人生のゴタゴタを斜めから見て『おもしろい』と言ったら怒られるかもしれませんが、ドラマには様々な正反対の人物が登場して完結するように、自分のドラマには悪人も善人も必要で、そんな脇役に囲まれてこそイキイキ豊かに自分を表現できるものだと少し分かるになりました。どんな人との関係も今の自分のドラマに必要なキャストとして存在するのだと理解することができれば、人生をより豊かにするかもしれません。苦しいのはあまりにも現実の役割にはまり過ぎて、内なる自分が見えなくなっていること。終盤に向けて少しづつ本当の自分に目覚めていきたいですね。  ドラマが終わりカーテンコールが始まれば本当に目覚めて、全ての配役がお互いに『お疲れさん』と握手するように、分かちがたい千の風となって『ありがとう』と。

アニメーション「象の背中」
役所広治主演の映画もありますが、二つで約7分ほどのアニメンーション。YOU TUBEにありました。
象の背中
http://jp.youtube.com/watch?v=f0j7vmCRmWQ
象の背中 続編
http://jp.youtube.com/watch?v=Gy-7pytjYyU



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