「食材偽装表示」の何が問題や!!

「ブランド」って何だろう
 ちょっと前、食品の産地偽装というのが問題になったが、今回は『食材虚偽表示』ということで、全国各地のホテルや百貨店で問題化されている。

 表示の物と実際の材料が違うということだが、これをよくよく考えてみると、『表示』の虚偽問題と『品質』の問題とはあまり(全くではないが)関係ない。
 こんな失態が常に繰り返されるのは商品に対する提供側と消費側双方の『ブランド意識』という呪縛があるからである。『ブランド』って何…? 定義を調べてみると他の商品と区別するために加味される『イメージ』の総体だそうだ。

 問題は提供側も消費側も含めた大多数が、イメージという根拠のあいまいな『ブランド』力を支持しているからである。

 問題を引き起こす側の論理は『機能が同様のものは等価だ』という、安易ではあるかもしれないが、根深い根拠を持っている。これは必ずしも間違いではなく、商品を軽く扱っていることとも少し違う。これはちょっと複雑な話である。

 これを一般製造業、サービス業の場合、また我々の業界で考えればどうだろうか?
 一般的に、同様の生産プロセス経由して、同材料・同加工・同量で生産される場合、価格は同等であると考えるのが普通である。

 でも実際は企業ごとに価格の高低があるし、同一ラインでも顧客によって違う場合もある。しかも『高価格』だから『高価値』とも限らない。

 そんなことが成り立っているのは、送る側の『商品・サービス』と、受ける側の『対価』が双方了解済みの『合意』意識の上に依存しているだけである。

 『ブランディング(ブランド化)』とは、顧客と価値の『合意』から時間をかけて『信頼』感を形成するためのプロセスでは。

 イメージアップのため他のブランド力に依存することと高級感を見せるために包装、デザインを変えたり…キャッチを変えたり…と目先を変えることは、例の『虚偽表示』と通じるものがある。ちょっと考えてみたほうがいい。



何年ぶり?時を動かした記念撮影(大阪市立少年保養所『つくし寮』)

大阪市立少年保養所「つくし寮」

もう40数年前お話になりますが、中2の時に1年間(正確には11ヶ月)だけ在籍していた大阪市立少年保養所。結核棟から喘息棟中心へと変遷して1992年に閉鎖されていたそうです。

 併設の大阪市立貝塚養護学校が2009年に閉校になるまでは、ここは通学路を閉鎖していたため敷地内にはなかなか入れませんでした。
 「時の流れに…」は2011年11月
 養護学校閉校後の一昨年の2011年11月、一人でその跡地を訪問。通学路の閉鎖部分がかなり甘くなっていたため、敷地内だけでなく『つくし寮』内の写真も取れたので『廃墟の旧大阪市立年保養所「時の流れに…」』というブログ記事を書きました。「時の流れに…」はつくし寮の詰所の上に貼られていた詩のタイトルです。
貝塚養護学校閉校後、保養所は急激に荒廃が進んで…
 先のブログは今からちょうど2年前の話ですが、このブログをアップしてから、同窓の方や関係のある方を中心に、今でも細々とコメントの書き込みが続いていて、同世代の方とも交流出来つつあったので、その後の報告のため最近(2013年9月)再び一人で訪問しました。今回は通学路が開放状態になっていて、侵入者も多いのか急激に荒廃の度合いが進んでいました。ただ『つくし寮』をはじめ、施設はまだ取り壊されていませんでした。
『40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)』

 今回は、この報告『大阪市立少年保養所「つくし寮」まだありました』というブログを書いたあと、初対面の『ヨロジ』さんと「取り壊される前に是非とも一度行こう」というお話になり、ご報告のとおり10月26日に決行。今回は「一人で訪問するには寂しすぎる」この地に、複数の人と、しかもブログでご縁になった方とここを訪問できて、とても不思議な気持ちでもあり、感無量です。

なんとしても『記念撮影』を

 このツアーに先立ち、「寮内で記念撮影を」と決めていたので、倒れていたロッカーを台にタイマーをセットして記念撮影をしました。

 これまで『廃墟探訪サイト』には廃墟写真や外観写真はあっても動きのない無人写真ばかり。ここ数年、この寮内で記念撮影をした人がいたでしょうか? 多分私たちだけかもしれません。一人だったらこんな写真撮る気しないものね。子供時代に走りまわった廊下やホールは何年も時間が止まってたけど、今回の訪問で、少しだけ時間を動かしましたね。

写真=『つくし寮』1階の旧2号室(女子部屋)前。後方は詰所・ホール、突き当たりが旧食堂方向)。2013年10月26日撮影。


40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)

大阪市立少年保養所、旧結核棟前で

 閉鎖されて久しい貝塚にある大阪市立少年保養所(併設の大阪市立貝塚養護学校は数年前までありました)。一昨年(2011年)に私が書いたブログがきっかけで、いろんな方からコメントをいただきましたが、今回このブログで親しくなった友人と、不思議なご縁で、一昨日(1026日)夫人同伴で一緒に訪問することに。

今回一緒に訪問するきっかけは、9月25日私が一人で散策してきたことを、ブログ『大阪市立少年保養所「つくし寮」まだありました』UPしたことから。この土地は2年前、大阪市が貝塚市に売却して以降、廃墟の度合いがますます進んでいたけどまだ残っていました。でも「いつ取り壊されてもおかしくないね」というお話からです。

一緒に行かれた方はヨロジさん(ニックネーム=どなたかご存知?)です。お会いするのは今回が初めて。同時代人なのですが、年齢も学年も在籍年度も違うので、当時は重なっていません。とはいえ在籍は1年違いです。(ヨロジさんは1968年度で在籍一年で当時小学校の5年、私は1969年の在籍11か月の当時中学2年) まず共通の友人探しからの交流でした。ヨロジさんと私の共通の友人は34人で、そのうち2人は私の在籍中に亡くなっていました。

「取り壊される前に是非とも一度見てみたい」…。今や『廃墟探訪サイト』の餌食になっている所で、一人で行くのはあまりにも寂しいのと、わざわざ愛知県からこられるので、それまでに旧友を探してみようという気持ちも私にはあったので、一緒に同行することにしました。

やっとたどり着いた『つくし寮』は昔、走り回っていたホールや廊下はそのままなのに、永い時間、人の動きがなく瓦礫となって完全に時間が止まってました。今回は4人でワイワイしゃべりながら訪問したことで、ほんの少しだけ、ここの時間を動かしたような気分に…。瓦礫になった寮室の前で記念撮影したのは私たちだけでしょうか。どなたかまた情報を!

初対面のご夫婦と『廃墟探訪』など初めてで不思議な経験でしたが、お会いできてうれしかったです。

(写真は今回はもとうに取り壊され、建て替えられた結核病棟の跡地で。バックのこの建物は最新モダンなもので、当然私たちは知らないものです。見ている方角は『金太郎寮』方向。『つくし寮』内や施設内の写真は掲載しません。また個別にお送りします。)



大阪市立少年保養所『つくし寮』まだありました

大阪市立少年保養所「つくし寮」

  大阪市立貝塚養護学校が廃校になって以後、2011年9月に少年保養所を再訪問した記事を同年11月にUPしましたが、その後、同窓の方々が見つけられて、たくさんのコメントをいただきました。特に同時代(1969年前後)の方々からのアクセスには、消息や当時の話題で盛り上がったりしました(でも当時はスレ違っていて面識ないのが残念です)。今でも細々と書き込みがあります。

 きょう(10月13日)、久々に泉南方面に行く機会があって、久々に覗いてきました。その年(2011年)に大阪市が貝塚市に売却したので、もう再開発されていて、なくなっているのでは…と思っていたのですが、養護学校も少年保養所も残ってました。ただ廃墟の度合いが進んでいて、今の撮影位置にいくにはかなりコツがいりました。(写真2013.10.12=『つくし寮』正門)
 



入院でのリフレッシュ休暇―薄型ノートが活躍!?

 23年ぶりに入院しました。ようやく昨日(9月30日)、酸素も点滴も外れて、自分の身で歩くことができるようになりました。間もなく退院する予定です。

 実は、この春からずっと体調が悪かったのですが、周囲ではいろいろな問題が発生していたこともあって、夜間や日曜、祝日の救急外来ばかりで病院に駆け込むという不摂生を半年も続けた挙句でした。
 
 話は変わるけど、最近の仕事のスタイルは、SNSを利用するようになった一昨年あたりから大きく変化。アナログ媒体に携わる私も、携帯電話をスマホに切り替えた時点でコミュニケーション方法に幅が出てきました。 
 
 最近はタブレット端末というのが世に出ていたのもあって、機械嫌いの自分でも、ちょっと効率的な仕事ができないかと重い腰を上げ、この9月(誕生日を目標)に、WiFiセットで念願の薄型ノートパソコンとを手にいれたばかりです。
 
 今回の入院ではコレがかなり私の補助をしてくれました。事務所への指示連絡、実作業の修正をはじめ、報告やあいさつメール。そしてSNS。そもそも入院を決意できたのも、正直この通信機器があったから。時代は変わったね。でもこれでいいんやろか?…とも。 
 
 今回のことは、少なくとも養生しなければいけない時に、できる時間、できる環境を、何かしら見えない力が一つの方向へ整えてくれたような感じがしてます。この数日間はほとんど管につながれた状態でしたが、なんか不思議。病院食でもご飯が非常に美味しい。



最後の『中野渡采配』に溜飲…ドラマ半沢直樹

 ドラマ『半沢直樹』が終了した。このドラマが高視聴率を更新していた理由が今一つ自分にはわからない。しかし印象に残ったシーンがいくつかある。その一つが最後の中野渡頭取の最後の人事采配である。

 最後の中野渡采配とは、大和田常務を平の取締役に降格させるだけにとどめ、一方、半沢直樹を2階級特進させた上で、大和田がもともと左遷しようと画策していた証券会社に出向させるというものである。

 小さな会社や関係する団体などで、常日頃いやというほど「人」の問題に悩まされる私たちもそうだが、企業社会のあり方を本気で模索する者にとって、経営者の持つべき方向性を垣間見た人も少なからずいたと思う。

 まず大和田常務の平取締役への降格は、ストーリーの中でも述べられている通り、人心を掌握する手法としてはかなり有効だ。もちろん経営者が経営者感覚としての人間観をもっていなければ、なかなかやれるものではない。でもこれは一つの政治手法に過ぎない。

 ただそれより圧巻だったのが、半沢への出向命令だ。もともと半沢は小企業経営者の息子であり中小企業の本来の立ち位置を知っていて、ドラマとはいえ、我々中小零細企業家の感覚と『期待されるべき銀行マン』への好感力を随所に表現し得た。

 ただこれまでの半沢の行動の原動力は私怨に基づくものであり、「倍返し」に見るストーリーの面白さのエッセンスはここにある。しかし中野渡はおそらく半沢の仕事の本質を別の角度で見ていた。最後の中野渡のこの采配は、武士の本懐を遂げさせた上は、新しい銀行のミッションに基づく社会性への回帰への道に連れ戻すこと…か。荒削りの半沢の面目躍如はコレしかない。

 これはドラマの面白さとは対極の、経営の新たなパラダイムに関わることであるから、『倍返し』のワクワク感を自身に投影させた視聴者は、あるいは『やっぱり企業に利用された』しがないサラリーマンという後味の悪さを感じたかもしれない。

 しかし、これが現実社会なら(現実ではないからこそ…か)中野渡は新時代のミッションを持つ経営者としての凄い手腕を見せたことになる。もしそうでないなら、大笑いの茶番である。であれば、これからの『仕事師』としての半沢のアイデンティティって何か…を鮮明にすることである。もし次回作への布石があるなら、おそらくここか…。


インターンシップを終えて…学び!喜び!不満!交々

  先週の木曜日(8月22日)で大学生のインターンシップ研修が終了。この間、営業や取材で訪問させていただいたお客様には大変お世話になりました。改めてお礼申し上げます。

大学インターンシップの受け入れは今回で4回目
 フジイ企画でのインターンシップ学生の受け入れは今年で4回目。最初のきっかけはというと、雇用開発協会のインターンシップ制度への登録でした。「怖いもの見たさ」で登録したものの初体験でもあり、受け入れ企業リストは大手企業ばかりであったため、学生のエントリー自体もないだろうと軽く考えていたのですが、実際は数名の学生が応募してきました。
 
初のインターン生の「洞察力」にビックリ
 実はその時のエントリーシートで、学生の一人が当社のHPを深く見ていて、かなり高度に当社の営業方針(例えば、コミュニケーション重視で、よくある『100%当社にお任せ』的な受注スタイルはとらない)を理解していたのが驚きでした。で、それへの自身のコメントも『「なんでもおまかせ」って書いてないのは本当の顧客満足を目指していると感じました…』と。言っときますが、当社のHPをすべて読んでも、文章としてはそんなことは一行も書いていないのでね。すごい洞察力!? ちょっとこちらもお会いしたくて、そこで初の受け入れをきめました。その年はこちらとしても非常に楽しい体験をさせていただきました。
 
一度はインターン受け入れを中止しました
 当時の雇用開発協会のインターンシップ制度は学生個人個人の応募の動機や考え方がエントリーシートで自由に閲覧できたので、十分学生さんと事前のコミュニケーションができたので、その段階でこちらも大変勉強になったのです。
 でも当社が受け入れた雇用開発協会でのインターン制度がこの年で廃止になり、翌年大学コンソーシアムが新たなインターン制度を発足させたり、前年の大学からも多くの依頼がありましたが、この時はすべての方の受け入れをお断りいたしました。
 
今のインターンシップ制度の仕組みに不満です
 理由の第一は学生の選考がコンソーシアム内での事前研修というのもあったのでしょうが、学生選考プロセスが事業者に見えなくなったこと。以前では各企業での研修結果と内容についてのキッチリとした報告が冊子となって送られてきたこと。これは取り組んだ企業にとって、インターンへの「負担」を差し引いても今後の教育材料として意味があったのですが、これがない。
 そもそもインターン学生の受け入れは我々のような小さい会社にとっては、スタッフ配置や実習課題づくりを考えるとかなりの高負担。もし「お座なり」の研修なら、やる必要もないし、するメリットも体力もない。これからの雇用環境と時代の変化を本気で考えるなら、双方のメリットを考えた仕組み作りを作ってもらわねば…と今も強く思っています。でなければ、よほど「意識」を持った企業でなければ小さな企業は、こういうことに取り組まないでしょうね。
 
再び受け入れたワケ…当社スタッフの士気の向上を見て
 とはいえ、一昨年(2011年度)より受け入れをまた復活。理由は当社にも毎回複数の応募がある上、内部での予備研修を終わらせてきた学生なので、お断りするのは申し訳ないと思ったことが一つではありますが…。
 それより第一の理由はうちのスタッフ達の働きについてです。学生に対する指導(といえるか)に当たったスタッフが、日々の通常業務を超えた、別の一面を見せてくれることです。学生とのコミュニケーションの中で、私が全く意識してなかった『教える力』『根気』『工夫』などの側面の発見です。今後の業務遂行の上で大きなメリットかなと思っています。

ウチの夏の風物詩に…

 今でも、基本的に『どうしても』という方以外は受け入れないという姿勢は崩していません。受け入れる場合でも「当社で再面接をしてお断りする場合がある」というのが前提です。(でも結果的にはご紹


『紙ブログ』広報ってなに…?

20130727営業ニュースを復刊したワケは…
この夏休みに向けて、『紙ブログ』と題するフジイ企画の営業ニュースを発刊いたしました。フジイ企画とは、広報紙の編集企画を中心とする印刷屋さん…とでも表現するのがいいのでしょうか? つまり紙媒体づくりを生業としています。でも、当社自体の営業の主流は、今や完全にインターネット中心(ブログ、SNSなど)。新しい企画や報告、イベント募集はまずブログで公表…。「これ、自己矛盾とちゃう?」。
 
まず、ブログを書くことから…
 ここでもう一度。フェイスブックなど画期的なソーシャルメディアが発達して以来、みんなが情報発信・共有している今、「なんで紙が必要?」。
 フジイ企画ではご案内しているように、今年(2013年)4月から「小さな会社のための広報紙発刊セミナー」を月1回開催して、広報紙を通じて「会社を魅せる」取り組みをしています。これを第2回目から『小さな会社の「紙ブログ」広報セミナー』に名称変更しました。
 ニュースの『紙ブログ』というタイトルは、このセミナー名からとったものですが、より方向性が見えるように、ブログを書ける人(ブロガー)は広報紙発行への第一歩…ということでネーミングしました。
 
 
『紙ブログ(広報紙)』とブログの違いは『編集』というプロセス
 『紙ブログ』…つまり広報紙発行の概念はブログ発信とほぼ同じなのです。ソーシャルメディアは『共感力』を武器として強力な伝達力で情報発信できるのですが、でもこれを戦略的に利用するためには、前提として自社の目指す経営理念と営業方向が明確であることが必要ですよね。
 実は『広報紙』が『紙である』ということ以外に、ソーシャルメディアと違うところ。それは『編集』というプロセスです。実はこの『編集』という作業こそが、色々な形で表現してきた経営理念、方針、営業のスタイルを整理し再検討し、方向性(ベクトル)をもって、外に向かっていく時に有効なファクターになるのです。
 
『編集』とはターゲットに向かうベクトルの創造
 私たちの目指すべきは、その方向性づくりなのです。私たちもブログ、フェイスブック等で常に情報発信しているのですが、それをもう一歩だけ「カタチ」に再編して会社の顔として社会に押すためのツール…という意味で『紙ブログ』とネーミングしました。広報紙づくりは、発信された様々な思いを常に整理・検討(編集)して方向性を持って押し出していく古くて新しいツールです。『本当に伝えたいことを伝えられる形に…』がフジイ企画の経営理念です。



広島県『鞆の浦』を巡って…町おこし考える

 8月25~26日、広島県福山市の『鞆の浦』にて 、全商連付属の「中小商工業研究所」夏期研究集会が 開催され、久々に私も外遊してきました。全体テーマは『循環型経済で地域再生を』ということですが、今回は原発に変わる再生可能エネルギーへの挑戦という新たな取り組みが論議されました。

 もともと、「循環型経済」でまちおこしというテーマは、これまで「商店街の活性化」や「地域でのネットワーク・コラボ化」などの取り組みで、私たちは前からずっと論議してきたことですが、原発事故を気に巻き起こった『エネルギー再生の取り組みでの地域循環』というキーワードで学ぶのは新鮮でした。ただ、技術的なことは難しいですね。
 今回は、ちょっと楽をさせていただいて分科会は『鞆の浦』の歴史探訪をしてきました。『保命酒』の酒蔵や坂本竜馬の『いろは丸』事件の展示館など見学。「歴史や景観を持つ地域を、地域の人々がどう育てるか」とテいうのが分科会ーマでしたが、産業振興や生活権と歴史遺産の保護との両立はかなりの論議の余地ありと感じましたね。今日(9/10)付けの「全国商工新聞」に取り上げられてたのでちょっと一筆…。


吉本隆明が逝去、あの時代は完全に終わった

 あの吉本隆明が3月16日に亡くなった。
 吉本隆明に触れたのは大学時代、でも団塊の世代ではありません。世の中の変革の可能性がほとんど廃れて行く中で、自分自身を持て余してたころに出会ったのが吉本隆明の世界でした。
 
   私が感じたことを一言で言い切ってしまえば、様々な社会現象が動く時は観念の共有性を獲得した時であって、つまり、簡単に言えば「世の中は物理的にではなく幻想によって成立している」ということをはっきりさせたということではないかと思います。
 これはすごいことで、文化や芸術、また社会運動、政治運動、宗教(運動)など、人の『観念』に去来する物事を理解するための、本質的なキーワードものを予感させるものでした。そのキーワードこそが「言語(ことば)」であって、その「ことばの本質とはなんぞや」を徹底的に追求したのが吉本であったと感じています。でもこれはすべて私の解釈です。
 
 その後、社会人となってからは、難解な吉本からは離れて行き…、人生の様々な局面でいわゆる『スピリチュアル』の世界へと変遷していきました。本屋の思想書のコーナーに立ち寄ったりするのですが、では相変わらず旺盛な執筆活動を続けていて、でもいずれゆっくりと…と思っていました。
 
 雑誌『試行』が吉本氏単独編集していた時、一度だけ吉本氏と電話で話したことがあります。次回の発行か支払の件かなんかで、時期は1991年か92年ごろだったと思うけど、『状況への発言』などの過激な文体が好きだった私にとって、それにに似合わず穏やかでゆっくりとした口調っだったのが印象に残っています。後、2008年に糸井重里の企画かなんかで『芸術言語論』の講演をテレビで見た時も同じような印象で、これが最後だったような気がします。
 
 とにかく自分の精神の変遷とともに吉本が時代だったことは事実で、ちょっと触れないわけには参りませんでした。一瞬閃いた言葉が『本質の片鱗を残して、あの時代は完全に終わった』。