〝最高の人生を生きる〟【紙ブログ38号より】

2020年春、創業30周年を迎えて

生きること=楽しむこと
 若いころは「映画館へ行く」という習慣はなかったのですが、最近は妻の影響もあって、よく出かけます。
 何事もそうですが、過去と現在の視点が大きく変化することってよくありますね。今回観た映画『最高の人生の見つけ方』もその一つ。必死で自分の存在位置を模索していた以前なら、スルーしていたような内容です。
 余命数か月の宣告を受けた女性2人。人生のほとんどを家庭のためだけに捧げてきた60代主婦(吉永小百合)と、仕事だけに生きてきた大金持ちの女社長(天海祐希)が病院で偶然に出会ったことからドラマが展開。
 死を待つだけの身になって、これまでの人生に空しさを痛感した彼女らが、たまたま手にした、12歳の少女が書いた「死ぬまでにやりたいことリスト」。二人は残された時間をこのリストに書かれたすべてを実行することを決意する。
リストの内容は、日本一の巨大パフェを食べるとか、スカイダイビング、エジプト旅行、『ももクロ』のコンサートでステージに上がるなど、これまでの人生で思いもしなかったことを実行するうちに、大事なことに気付き〝魂〟の奇跡が起こる。この気づきとは?…

経営理念より大事なもの
 恥ずかしい話、最近まで気付かなかったのですが、弊社は今年で創業30年を迎えます。今さらながら、「よくここまで保ってきたな」と思う一方、大きな回り道もしてきたような感があります。
創業時、仕事自体は職人的?に好きでしたが、特別な夢やビジョンもなく、状況的に独立しか選択肢がなかったというのがほぼ正確な経緯です。
 資金ゼロ、顧客ゼロ、社交性なし、コネなし、しかも「営業大嫌い」「銀行とは付き合わない」という変な信念もありました。およそ世間的な意味での独立起業の要件は皆無でした。
 当初は、そんな状態で多くの不安も抱えていたため、経営の勉強をしようと思って経営者団体に入ったり、成功法則の本を読んだり、数年は結構真剣に勉強しました。
 そこで「経営理念」の重要性や「企業の社会的存在意義」、「感謝主義?」、「顧客第一主義?」など、今となれば雑多な〝観念〟も詰め込んできたのですが、一つ、何よりも大事なことに気が付いていませんでした。
 その結果、マイナス要素の発掘と〝ジャッジ〟のプロになりました。特に人材教育については心で「うちは大丈夫」と感じつつも、こじらせていましたね。
 今思えば、これまで弊社を通過したスタッフは低賃金でありながら、不思議なくらい全員が前向き人間でした。だけど、社内の空気も悪く、業績も一新一進一退が相当長く続いた(と思っていた)のです。
 ある時、問題は依存主義(=セミナー依存や他者の経営理論に当てはめる思考)にあると気づきました。そこで、どんなに人が推奨しようと、自分の本音に反するものはしないと決めて、孤立を覚悟で我流を通すことにしたのです。
 
 何より自分を信頼すること
 変な理念(ジャッジ)を手放してみると、いかに見えていなかったかに気づきました。僅かながらも業績はアップしていること、スタッフも思った以上に育っていること。今は経営者業だけに専念できてること。
「何も問題はない」。
恐怖の自我を

超えた時、魂の声に奥深い感謝を感じます。
構造的な不況業種であるこの業界で、関係業者や仲間が頑張りながらも次々消えていく中、頑として我流を通すことに恐れや罪悪感も感じていました。しかしこの〝罪悪感〟は不要だったと、最近やっと気付きました。
いつも振り出しに戻していたのは、この恐れからの行動が元凶で、この30年間、よく考えてみると、「いつでも業績は改善しつつあった」のです。

 さて、最後の旅に出た女性二人が大事なことに気付き〝魂〟の奇跡が起こった、この大事な気づきとは何だったのでしょうか。楽しさとワクワク感。これがエランビタール(命の躍動=愛へ導くもの)だと思います。自分を否定せずに「自分のやり方でいい」。もっと言えば「やりたいようにだけやっていればよかった」のです。
 恐れを超えて自分を信頼すること。徹底的に自分との対話ですね。その中に見えて来るものが命そのもの。人生は同行二人。
 世間的な倫理や、〝理〟にかなった(ような)他人発の〝成功法則〟はどれだけよく見えても、自分のものではないですね。まして他人と意見交換する性質ではないのです。

このドラマって、現代版「お遍路さん」哲学?。これまで気づかなかった究極の成功法則が見え隠れします。
 この女性二人は死ぬ前に最高の気付きを得たのだけど、自分は、死ぬまでにもうちょっと研鑽時間がありそうです。でも死ぬ一秒手前でも十分です。
新たなパラダイムを迎えた2020年、もうこのゲームも限界かも知れません。新たな飛躍を楽しみながらいきます。(『紙ブログ38号』2020年新春号)(写真下=潜伏キリシタンの里「頭が島」)



「東京五輪のエンブレムのデザイン問題」の議論のすべてがおかしい

デザインに盗用などあり得ない、もしくは全てが盗用だ

五輪エンブレム‐雑記帳 仕事柄、日常的に制作物の「デザイン」について悩ましている私たちにとって、今度の東京五輪のエンブレムのデザイン盗用?騒動は、論議自体が相当ズレていて、愉快な話ではない。先日のニュースではようやく〝一般公募〟をスタートするそうだ。何がズレているのか。「デザインの盗用」、「著作権」、「公募選考?」、これらの全てがおかしい。

プロなら盗用?は自明の理(常識)のはず…じゃないのか
 デザインの盗用?って。私たちにとってそれは不可欠なだけではなく前提である。私たちは制作物のデザインコンセプトを考える際、最初に行うのが素材探し。まずどこかから材料を拾ってくるのだ(文字通り〝盗んでくる〟という)。雑誌・書籍や絵画、もちろん同業他者のものでも参考にする。根拠はいたって単純、いかなる新しい制作物もこれまでの人の営み(文化)の上に成立しているからだ。その営為を前提に新しいモノを立てる。この世界に存在しないものからは何も創れない。それゆえ制作物はそれらの素材そのものではなく、その上に立った制作者の「意図」の凝縮である。

そもそも「著作権」なんていうのは意味のない権利
 第2に「著作権」だ。まず、一番ズレた話は「商標権」という商業主義との混同だ。「商標権」は経済システムに組み込まれている。つまりモノのもつ経済的価値?が前提にあって、認知度その他の指標でその価値の算定が可能な仕組みにある。
 しかし「著作権」はそれとは違う。まず価値を前提としない。デザインでも絵画でも他の芸術でもそうだが、そもそも「著作権」は「商標権」と違って何の登録義務もなく、創作しただけで発生するのだからややこしい。「自分が創った」と言えば、それだけで権利が発生する。だからその性質上、算定可能な価値基準などつくれない。ゆえに経済的価値などは不明である。運よく商取引が絡んだ時にだけ発生する権利だ。

私たちが感覚的に使っている「デザイン」の本当の意味は?
 では、そもそもデザインとは何か? 一般的に日本語訳すればデザインは「形態」や「意匠」と訳されてきた。だがそれだけに限らず、人間の目的をもった行為や物?をより良い?かたちで適えるための「構想」「設計」「計画」をも意味する…とされている。つまりデザインという概念は、対象(物・事)のもつ意匠に関する方向性をもった総体のことを表すのだ。ここまで言ったら何のことか分かるだろうか?

デザインの価値なんて誰も決めることはできない
 かのスティーブ・ジョブズは「デザイン」というものについて、明快な定義を示した。「デザインとは、単にどのように見えるか、どのように感じるかということではない。どう機能するかだ」と言ったそうだ。
 つまりデザインとは「美しさ」や「(誰かの)評価」や「人気」ですらなく、意図を持った方向性そのものを指すことになる。これを私流に先読みすれば「それに唯一評価や価値を与えることができるのは、時の文化や歴史」だということになる。このすごい洞察を前提とするならば「似てるか否か」などはどうでもよく、また、下らぬポピュリズムに裏打ちされた「選考」などという意味のない議論に終止符を打つ。

共通の素材で「独自の価値」を生み出すのがプロだ
 そもそも、本気で仕事に取り組んでいるプロなら自明の理である。「○」や「△」といった〝安定系〟の図形に個人の権利などはない。〝複雑系〟の尾形光琳の「風神雷神」ですら盗作だからと騒ぎたてるものもいないだろう。その素材を生かしながら「独自の価値」を生み出すのがその道のプロの存在意義で、独自の価値観で日々淡々と仕事をしているのだ。この議論の本質は「庶民感覚」とやらも含めた「経済主義」(=損得にまつわる公平性?)を前提とした発想なので、誰がやっても的確な「選考」も「評価」も加えることはできないのだ。そもそもこの地点での議論は下品でありナンセンスである。



新しく組み立てること『自分の信念を扱う』

『全ての変化は良い方への変化である』

daiji-kokoro 2012年ころから「起こってきた」自己改革の意識。それは、自分の『信念』の総点検という形で進んできた。ウォルシュの『変えれば変わる』は2009年出版だが、久々に昨年から再読に挑戦。今回は「完全に理解して実践」するため、いくら時間がかかってもいいからゆっくりやろうという意識が芽生え、一冊読むのに半年以上かかっていて、まだ終わっていない。

変えようとする『信念』(自分にとって根拠のない思考)とは何か。まずは前提としたのは自然に「やりたい」事=仕事だけを選び、楽しくすること。まだクリアできない理由づけが多すぎるが、それ以外を変化させることに取り組んできた。後の1~2年はそのことで流れも少しづつ変わり、当初は仕事の面でのマッチングやシンクロを通じた変化が起こり、当初のイメージ通りすすんできた。

しかし、石の上にも3年…というが、それを前後した昨年後半以降は良い変化より、「悪い」変化が立て続けに起こってくる。つまり、この変革イメージの礎として「ここだけは死守すべき」と思っていたことが急激に崩れていく。例えば、再構築の基盤にしようと考えてきた現在の優良顧客の離反。また確固たる実績のはずがその意味・価値を全否定させるような出来事など。これでは、そもそもの変革のよって立つ基盤自体が消滅したようなものだ。しかもこのようなことは過去に経験したことはない。

ここが『信念』というものを扱う醍醐味かもしれないが、昨夜ちらっと見たテレビ「プロフェッショナル仕事の流儀」で俳優・渡辺謙が、常に新機軸に挑戦するなら「これまで培った技術やキャリアや名声の全てをチャラするつもりで、新たに取り組むしかない」と言っていた。その一言が触媒となって、一挙に事の真相に迫ったような気がした。これこそが、変化の時代の取り組み方の基本だということだ。全てを失うかもしれないことを前提にするしかないなのだ。しかも失ってもいいのだ…と。

予想外の事が起こるたびに、いつもの「思考癖」で一連の出来事に対しての「分析」が頭の中で自動的に始まる。その「分析思考」のスタンスはいつも「この結果を避けるためにしておくべきだったことは…」だ。だが今回は、その出てきた根拠を思いつくだけ手帳に列挙して、全て「根拠なし」として×印をつけた。なぜなら「しておくべきだったこと」は、当初からおぼろげながらでも「必ず」知っていたことだ。知っていたのに「しなかった」。だが、知っていたこと=「知識」と言われるものこそ、情緒的で出所不明の「信念」だと気付いたからだ。正誤善悪などは関係ない。この『信念』自体が心に巣食うガンなのだ。ならば物事を進めるには、これを発見してここを変えることなのだ。従うのではなく…。

さらに重要なのはこれらの一連の最悪(と自分が判断する)出来事で、理性に隠れた「自分で気付かない」古い信念に「気づいた」ことだ。つまり失った(と思う)出来事とは、その変革に不必要な「古い信念」が心の中にあるということだ。消す必要のあるのは出来事ではなく「古い信念」のほうなのだ。だから理解不能の出来事が起こるのだ。それを発見するために。理性はこれを避けるために古い思考を繰り返すが、魂は開放感を味わう。そもそも変革する必要がなければ、そんな出来事は起こらない。つまり「信念を変える」とはそういうことなのだ。この道程はわが神の壮大な計画なのだ。
『全ての変化は良い方への変化である』



がんの精密検査を拒否して…『神秘』とのシンクロニシティ

 2014年をちょっと振り返ってみれば、自分の身の回りに関する二つの変化=出来事があった。一つは身体問題でもう一つは経営の行き詰まりに関する課題だ。この二つの変化は出来事としての関連はないが、その他のことも含めてこの一年はけっこう明晰な気づきの場を与えてくれたように思う。

 
 一昨年には持病の喘息で20数年ぶりに入院した。この年は、前後してそれぞれ別々の健診で2種類のがんを疑われ、うち一つは入院を要する精密検査だ。果ては「認知症」まで疑われた。今まで喘息以外で体のことで意識したことがなかったのだが、〝心〟とはやっかいなもので、還暦前という年齢に直結させてしまって、不安と動揺を与えた。
 
 そもそも「安心などは買うものではない」という意識が強いので、結局すべての精密検査を拒否することにしてもう一年以上になる。ただ不安が全く消えたわけではなく、この秋、便の出が悪くなったのを機に町医者に行ったら、病院での精密検査を強要された。だがこの一連の騒ぎで逆に吹っ切れた。(この期に及んで…という感もあるが)〝信念の構造〟をもう一度学び、〝視点の位置〟を変えることで、ようやく起こっている事象の見え方と対処の仕方が変化した。再度「何もしない」と決めたのだ。
 
 その視座から見れば、この年の経営不安も含めた別々の変化=出来事が連動して独自の〝意味〟を構成しているのがわかるようになる。その立ち位置を維持すれば、不安が消えて周りの景色がカラフルになり、気分が前向きになっていくのを感じる。今も下腹部に痛みを感じているが、それ以上に(それがあるから)前向きに進もうと思える位置だ。
 
 そんな折、白石一文の『神秘』という小説に出会った。自分にとっては凄いシンクロニシティを感じて、この正月は久しぶりに読書に耽った。
 
 物語は、膵臓がんの末期で〝余命一年〟と突然宣告された五十三歳の出版社役員が、在籍中の月刊誌の編集部に、二十年前たった一度だけ電話をかけてきた、顔も連絡先も分からない自称超能力者の女を、全てを捨ててさがす旅に出る。そこで様々な神秘としかいいようのないシンクロニシティを体験するというものだ。
 
 といっても、オカルトやいわゆる〝スピ系〟オタク好みの現実離れした体験の中から病気が治癒していくといった類の話ではない。そんな話は実話ならいざ知らず、小説としては茶番ですらない (実話であっても何の意味もないが)。事実、物語には病気が治癒したかどうかは記されてはいない。
 
 『神秘』のエッセンスは、〝死の宣告〟と同時にこれまでのしがらみを捨て、旅にでるうち、今までは風景でしかなく無関係と思われる人々が関係づけられ、ある方向へ導かれていく…というものだ。それはこれまでがむしゃらに立ち向かってきた世俗としての自分と、会社や崩壊した家族との絡みを、これまでと違った視点から見直していく旅になっていく。
 
 この旅は目的も方法論もない。つまりどういう展開になるかわからない羅針盤のない旅なのだが、主人公は「私の身体は消滅へ向けてひた走っているかもしれないが、私の心は今こそ私自身に向かって歩んでいる」と感じ始める。この視点は告知以前にはなく〝死の宣告〟という出来事を起点に初めて獲得し得た視点でもある。つまり手放した=委ねたことによって過去を含めた人生総体が、本来あるべき方向に徐々に動き出すプロセスなのだ。
 
 主人公はもともと旅の最初から「生きたい」とは思っているが「死にたくない」とは思っていない。つまり〝生きる〟ベクトルを持ちつつ〝委ねる〟(しかない?)ことで最後には新しい地平に辿りつくのだ。終盤には「(自分の中にある?=私注)存在にすべてを明け渡すとき、私は『私』でなくなる。自分自身を完全に預けたとき『私』はもはや存在しない」と感じる


イベントで学び楽しんで、低迷期からの脱皮を

よい製品づくりだけでは “顧客満足”にならない

 今年前半の特徴をいえば、年度当初(春)に僅かに伸びてきた売上が一気に下降してきたこと。これまでネット営業を戦略の主軸において、ネットでは盲点の顧客とのコミュニケーション方法を模索して「良い製品(サービス)をより迅速に」できる仕組みづくりで、僅かに成果が出つつあった矢先でした。減少したのは、これまで成果を出してきてノーマークだった複数の既存客。年度替わりでってこともあったけど、つまり“顧客満足”とはよい製品づくりだけではダメだと改めて気づくことになりました。
 
自社の課題を抱えながらのインターンシップ研修
 折しも毎年夏の恒例行事となった大学インターン研修。今年は地域の経営者団体からの要請を受け入れた結果、2つの制度から去年の倍の4名の学生受け入れることに。当初は一方で受け入れた場合、他方はお断りするはずでした。業績悪化の課題解決を迫られているさ中、零細企業にとっては極めて負担の大きい取り組みをなぜ? 第2四半期の営業会議はこの2点が論議の焦点でした。
 
製品より大事な“信頼”というキーワード
 当社の “印刷関連業”という業態はサービス業であると同時に、一方では製造業でもあります。製品(企画・デザインから印刷物)には“品質”という計測可能な指標があるのですが、実際の取引では、製品の「良し悪し」以上に会社や担当者(人)を“気に入る”か “気に入らない”といった情緒的判断に大きく左右されます。その根底を支えるのが おそらく“信頼”というキーワードになるのですが、この信頼は、当事者でも簡単に見えてこない仕事に対する姿勢や考え方に大きく依拠することになります。
 
“信頼”を築くにはまず顧客との“共感”づくり
 で「信頼を得る」には…。端的にいえば仕事を通じた顧客とスタッフとの共感づくり。で、共感を培う原動力のひとつは“楽しさ”ということかも。仕事が仕事でしかないうちは、取引は「正・誤」「損・得」「駆け引き」の世界。これは双方にとって戦いに近いものになってしまう。でもこちら側から「仕事を遊ぶ」ことをまず取り組んで、この“楽しさ”を顧客と共有できれば、その意識がスキルの向上とともに“信頼”へと伝播する道筋になるかもしれません。
 
まず自分の仕事の世界を“楽しむ”ことから
 この数カ月「顧客満足の仕組みづくり」や毎年の「インターンシップ」などのイベントに取り組んできましたが、ある意味で「損得」勘定では測れない通常業務のにはないスキルアップの機会。財務的な営業判断だけでは決して取り組めないことです。一致団結のための飲み会や、社員旅行のノリかも。違いはあくまで仕事のスキル向上だけど、でも気分をかえて少年(少女)時代の合宿のノリ…?で研鑽できたなら、この苦境を乗り越えるパワーとなって、“信頼から業績向上につながる…と信じてやっていきます。



負けたら“一巻の終わり”のコンペに参加する意味

 コンペ(competition)って

 よく私たちの業界で、受注に競争方式にコンペ(ティション)というのがあります。つまり発注をする際、複数の業者から案の提出を求めて、提出された案の中から最も良い案を選ぶという一連の業務の流れのこと。選ばれた業者のみが仕事を受注できるというもの。業者のやり方によって結果が大きく変わる、建築、広告、デザインなどの分野で多く採用されています。
 つまり、一般競争入札のように最低価格で落札するわけではなく製作に必要な金額を提示する。その分、コンペに参加する業者は仕事を勝ち取るために、コンセプト・企画案をはじめ、デザインラフと作成等の実作業まで行う必要がある。
 
当然1位のみ、2位(以下)じゃダメ。
 これは、私たちのように零細企業にとって相当な負担ですね。ほぼ、受注した場合の製作ライン業務と同じかそれ以上の作業をこなして提案する。しかも1位になって初めて受注できる。「2位(以下)じゃダメなんですか」って当たり前でしょ。スタッフの人件費もそうですが、部分的にでも外注に頼んだりすると完全に赤字だからね。
 
日常業務最優先、時間外手当なし、リタイアなしの条件で…
 でもフジイ企画では、スタッフのスキルアップのために、無謀にも何回か挑戦してきました。ただしエントリーした以上①仕事が入ったらその業務が最優先、②時間外手当なし③リタイアなし…という前提です。こんなの労基法違反ですが、そうでなければ取り組めません。でも落札したら特別ボーナス。
 
しかしこちらも“選考する側”を吟味します
 コンペとはこのような高負担のため、“参加する、しない”を考えるにあたっては、絶対に考えるべき営業スタンスがあります。まず第一に、選考する団体や企業の担当者に「内容を評価する能力があるかどうか?」「ラフ提案内容とは別にかなり低い金額を提示した業者に対してどのような判断をするか?」など、こちらもキッチリ相手を選別してから取り組みます。実際、提案書やラフを既定外に省略してその分単価を1/2に下げて落札したケースも実際ありました。こんなのは論外、コンペではなく価格入札でしょ。ただこちらの見る目(戦略負け?)がなかったのですが…。
 
絶対不利なのになんで参加を?
 そうでなくても実際コンペには“有利、不利”が絶対にあります。ただ不利であっても負担が軽く、何らかのスキルを試す必要がある時、それを好機に参加する場合があります。今回久々に、このような気持ちでコンペに参加しました。それが同友会の『経営指針確立・成文化マニュアル』改訂版。内容は『見積もり価格』と『自社の強みをどう生かすか』というプレゼンテーマだったからです。ちょうどこの春に営業計画を見直したばかりなので、これを発表するいい機会。これならスタッフに負担がかからず、仮に負けても(いや状況的に勝てる公算は低い)意味があると思ったからです。
 
負けても活かせる道があるなら意義がある
 参加してみて…やっぱり。それぞれの会社の印刷方式や単価の出し方、出稿入稿方式の確認など、およそ「自社の強み」とは関係なく、普通印刷会社ならどこでもできるスキルを確認するのみ。各社に対して出る質問も違う。それらについては「こちらもすべてできますよ」…ってとこだけど。フジイ企画のプレゼンは、自社の得意分野と会社の強みを引き出すためにどんな取り組みをしてきたかをレジュメにして報告。でもほとんどそのことの質問がなく、やっぱり場違いだったかな…と。 しかし、これを整理するために2~3日かけたおかげで、約半年論議した営業会議の整理ができ、6月度の編集セミナー(テーマ=「営業計画と広報方針」)のテキストとしても利用することができました。このセミナーの予行演習?のおかげで人に伝える新しい課題も発見、いい勉強になりました。


広報の成果はお客様のもの。だから印刷物の安売りはしません

この春、初めて担当される方でも
広報紙づくりは楽しく〝ラクラク〟
 3月もぎりぎりまで寒い寒いと言いながら、ようやく春めいてまいりました。4月からはいよいよ新しい2014年度ということになります(フジイ企画の年度は1月から12月末までですが)。春と言ったら人事異動の季節でも。私たちのお客さまも、担当でおつきあい頂いた方が何人か交替されます。

 で、この時期は“引き継ぎ”というのが一つの節目の仕事となります。これまで、お付き合いいただいたお客様にご満足いただければ、引き継ぎがスムーズになりますし、引き継ぎのお話がなければ“おわり”ということもあります。

広報紙の品質はお客様の成果です
 私たちの“商品”はコミュニケーションツールとしての広報紙づくり。難しく?言えば、広報物を通してお客様がやりたい(やるべき)目的に沿って最大限の効果の出る(満足する)広報紙をつくること。とはいえ、印刷物はどこまでこちらが関与しても、最後にはお客様の成果ですね。だから本質的意味ではお手伝いが“商品”。

お客様は〝お困りごと〟を任せて楽しい紙面作りに専念できるよう…
 フジイ企画ではそのプロセスが仕事。お客様にとっての課題の解決(お任せも)だけでなく、目標を成果に変えることです。
 ワープロが打てない。担当者の加重作業。短い編集期間と納期(時間がない)。企画に沿ったいいレイアウト、デザイン。コンクールで賞を穫る!?
 これらのことを解決して担当者も楽しく楽になって良い紙面になることを目指します。

私たちは印刷物の安売りはしません
 そのためにはお客様の〝お困りごと〟を聞き、信頼関係を築くことが最も重要な営業ファクターです。だからフジイ企画は単純にコストカット提案で印刷物を安く売る営業はしません。競争の激しい印刷業界でそんなこと? もちろん発行費用問題も重要な(というか最大の)“お困りごと”の一つかも。当然、その解決も当然私たちの仕事なので是非ご相談ください。でもそれだけのお困りごとなら、他に安い会社いっぱいあるので解決は簡単。
 広報紙の制作の〝お困りごと〟は種々雑多。費用の面も含めてお客様と一緒に考えていくために、この春の新規営業は『お困りごとアンケート』からスタートします。



こころの中の今ものこる『貝塚少年保養所』

閉鎖後の大阪市立少年保養所(と大阪市立貝塚養護学校)の訪問記を2011年9月にブログに書いたのがきっかけで、色々の方からコメントをいただいたので、その後記などを書いている間に何人かの方々とお友達になりました。その中には『是非もう一度見たい』ということで昨年10月末にその方と再訪問することに(40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)。この本の著者、小説家の南川泰三さんはこの時、小説のために古い時代の(昭和32年ごろ)の保養所方の証言や資料集めをされておられました。

 今回、このブログから出会った、私と同時期(1968年)に結核で入所されていた村田さんが、この南川泰三氏が『貝塚少年保養所』を暮れに発刊され、購入されたとフェイスブックに報告しておられたのを知って早速、自分も堺の図書館で見つけてきて一気に読みました。
 
 貝塚にある『大阪市立少年保養所』は結核予防法による小児結核療養所としてスタート。その後の高度成長の影響で小児喘息が増え、1967年に喘息棟(つくし寮)も併設。1992年に保養所はすべて閉鎖になりました。(貝塚養護学校と寄宿舎は2008年まで存続)
 この本の舞台から一巡り(12年)後の私たちがいた1968年当時には木造の結核棟は小説のままで、入所者もまだ多くいたような記憶です。私たち「つくし寮」生にとって、結核病棟の人とは学校で会える軽度の人だけで、この時期在籍していた村田さんとも当時は出会っていません。
 
 南川さんの小説『貝塚少年保養所』の冒頭にある大阪阿倍野からタクシーで貝塚の『入所』に向かうシーンは、辺鄙だけど美しい田園風景を一部では感じながらも、希望に満ちた13歳の少年ではなく、「落ち武者のような」重い気分を背負った当時の自身の心象風景と重なり、非常なリアリティを感じました。
 
自分の体験と重ね合わせて…
 ここに書かれているエピソードの多くは内容こそ違え、私自身が寮生活で体験してきたこと彷彿させる内容で様々なことを思い出します。これは私の体験の一部です。
 ひとつは、身近な僚友の「様々な形の死」の体験。寮生活しか知らなかった長期入所解放(卒業)された直後の死。また、今でいう“イジメ”問題のあった子の突然のショック死(原因は不明)。そして自分へも死神がやってきて意識が朦朧となるなか、死とはこういう感じかと感じていたこと、そして危篤の知らせで駆け付けた母が面会せずに帰ったと後に知らされた体験など。
 日々の生活では、ここでは書けないけど療養生活とは程遠い事件や、ほろ苦い話では、結核の重症棟にいる女子に一方的に恋心を寄せて、一日に一度だけ昼食時に渡り廊下を渡ってくるのを寮の窓から毎日見ていただけだが、なぜかそれがバレていたのに接触するすべがなかったことなどもありました。また、クラスの女子ら5~6人が集中豪雨後の学校から離れた池に遊びに行って一度に3人が溺死(これ小説の脱走事件を彷彿させる)。この溺死事件の直前には、私に関係する女子との『事件』もあったので非常に整理のつかない思いをしました。
 
 これらのことは日々の生活ではほとんど封印していますが、でも思春期のたった1年未満のこれらの体験は濃厚ではあったけど、今考えると、純粋な精神のなかのほろ苦い記憶でしかなく、本当はそれなりに結構楽しいものだった筈なのです。ただ良い意味でも悪い意味でも後の「生きること」を考える原点になっているのは確かで、これからも、まだ取り組み続けたい課題です。
 
 この小説『貝塚少年保養所』は私たちにと関係する一時代の歴史の『確かな証言』記録です。


2月2日は夫婦の日

  特別どうってことはないのですが、何かと理由を見つけて、夫婦だけで外食することも多いのですが、きのう2月2日は休日だったので「結婚記念日やし…」とまた“冠”をつけただけの会食をしようということに…。

 ただここ数日、風邪が治ったと思ったら、今度は異常な肩凝りのせいで病院へ行くかどうか…から喧嘩になり、いつものように「もうどうでもええわ」となった挙句でしたが。
 
 ところで、結婚当初、この2月2日は『夫婦の日』とちゃうか…ということで「何か意味シン」やから必ずあると思いつつ『命名』したのですが、実は夫婦の記念日としては11月22日が有名で、『いい夫婦の日』として推奨?していることを後に知りました。でもこれって単なる語呂合わせだけでしょ?。
 
 別に文句をいうつもりはなかったのですが、この『いい夫婦の日』、語呂合わせ以上に、非常に違和感があります。いい夫婦があるなら、悪い夫婦もある…ってことか。我々はどっちや? そもそも夫婦は夫婦であるということだけで完結していて、『いい』も『悪い』もない…でしょ。
 
 そこで『夫婦の日』でネット検索したら、2月2日の『夫婦の日』もありました。兵庫県姫路市でやってる『夫婦感謝の日』。これ納得。夫婦は永い時を重ねると、螺旋を描きながら匍匐前進している戦友と似た感覚。その永い浮き沈みを経て今生きていることをしみじみ感謝できる日。こんな記念日ならいいね。 …いつ『終戦記念日』。


いかなる状況下でも『勝ち』にいきます

 12月のピークを過ぎかけたころ、急きょ首長選挙に出馬されたお客様から選挙広報一式を受注。年末年始のおよそ3週間、『戦時(?)』体制を組んで取り組んでおりました。 結果はというと、今回は今まで未経験の惨敗で、ようやく26日の開票結果を待って、週初めに敗戦処理を行ってきました。非常に悔しい思いをしました。こんな経験からしか書けないことがあるので、ちょっとひとこと。

 今回の選挙戦事後会議において出た話。「準備期間がなく広報方針ができず見切り発車」「選対がないため資料がメモ程度で入稿が遅い」「先方との連絡網・確認先が一定しない」など。…これって誰の話?

 一般に、選挙の勝敗やある目的での広報物への反応・効果は、その対象の人やモノの性格(性別・年齢・知名度・印象=ブランド力)や品質(内実・見栄え)、初発(スタート)地点と方針(目指す方向性や理念)、取り組む主体組織の性向(動員力・団結力・取組姿勢と行動力)、そして社会情勢(トレンド・風向き)など、様々な要因が働きますよね。

広報紙媒体の『価値と効果』を『信じる』ことが『プロ』
まず仕事をする前の大前提。第一に状況に関係なく、広報紙の『価値と効果』を知っていること。そしてその力を『信じている』ということ。第二にもし本当に『信じている』のであれば、その他の外的条件は考えずに「いかなる条件下にあっても『必ず効果を出す』」ための方法を考えるということにつきる。それは選挙戦では得票数、その他の広報では反応率、クロージング率という数字を目指すことです。それが『プロ』です。

 フジイ企画は『本当に伝えたいことを伝えられる形に…』が基本理念ですが、これは単なるスローガンではなく、紙媒体における〝伝えられる手法〟を日々の変化の中で考えだしていくということです

 今回の経験から学ぶのは「他の方法はなかったか?」と考えることだけ。受注した以上、前述のような諸条件は「分かっていた」「予想できた」ことで、その問題は論外です。でなければ「我々は広報のプロだ」といいながら、一方では「自らの『職業』は他の様々な要因に影響されるもの」と言ってるのと同じ。つまり自分の仕事を『本当は信じていない』ということになります。戦略・戦術のミスは改善すればよいが、こんなことは我々の存在意義に関わることです。

 唯一お客様を判断する材料は、このことに取り組む『信念』があるかどうかです。どういう信念かは関係ありません。当然、自分の思想・信条と合わない場合もありますが、そのお客様に『信念』があるなら、こちらも仕事への『信念』で考えることだけです。

 そういう意味で、この仕事をしていると、当然現在のお客様との対立陣営の仕事をすることも多々あります。フジイ企画は下請仕事はしないので、届け出広報物にはフジイ企画の社名がキッチリ印刷されます。今まで古いお客様への報告は「仕事ですので…」と添えたりしていたのですが、最近は報告するだけにしました。つまり、片方には力を入れているけど、もう一方では「不本意で、手を抜いている」というニュアンスがあるみたいで、本心ではない。だからどんな場合であっても『必ず当選を目指します』と公言することにしています。