40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)

 閉鎖されて久しい貝塚にある大阪市立少年保養所(併設の大阪市立貝塚養護学校は数年前までありました)。一昨年(2011年)に私が書いたブログがきっかけで、いろんな方からコメントをいただきましたが、今回このブログで親しくなった友人と、不思議なご縁で、一昨日(1026日)夫人同伴で一緒に訪問することに。

 今回一緒に訪問するきっかけは、9月25日私が一人で散策してきたことを、ブログ『大阪市立少年保養所「つくし寮」まだありました』UPしたことから。この土地は2年前、大阪市が貝塚市に売却して以降、廃墟の度合いがますます進んでいたけどまだ残っていました。でも「いつ取り壊されてもおかしくないね」というお話からです。

 一緒に行かれた方はヨロジさん(ニックネーム=どなたかご存知?)です。お会いするのは今回が初めて。同時代人なのですが、年齢も学年も在籍年度も違うので、当時は重なっていません。とはいえ在籍は1年違いです。(ヨロジさんは1968年度で在籍一年で当時小学校の5年、私は1969年の在籍11か月の当時中学2年) まず共通の友人探しからの交流でした。ヨロジさんと私の共通の友人は34人で、そのうち2人は私の在籍中に亡くなっていました。

 「取り壊される前に是非とも一度見てみたい」…。今や『廃墟探訪サイト』の餌食になっている所で、一人で行くのはあまりにも寂しいのと、わざわざ愛知県からこられるので、それまでに旧友を探してみようという気持ちも私にはあったので、一緒に同行することにしました。

 やっとたどり着いた『つくし寮』は昔、走り回っていたホールや廊下はそのままなのに、永い時間、人の動きがなく瓦礫となって完全に時間が止まってました。今回は4人でワイワイしゃべりながら訪問したことで、ほんの少しだけ、ここの時間を動かしたような気分に…。瓦礫になった寮室の前で記念撮影したのは私たちだけでしょうか。どなたかまた情報を!

 初対面のご夫婦と『廃墟探訪』など初めてで不思議な経験でしたが、お会いできてうれしかったです。

(写真は今回はもとうに取り壊され、建て替えられた結核病棟の跡地で。バックのこの建物は最新モダンなもので、当然私たちは知らないものです。見ている方角は『金太郎寮』方向。『つくし寮』内や施設内の写真は掲載しません。また個別にお送りします。)



22 comments to this article

  1. 村田博務

    on 2013年10月28日 at 07:07 - 返信

    自分も行きたかったです。バックの建物よく廃墟マニアが結核病棟ってタイトルで使われているところですね。金太郎寮ってつくし寮の隣にあった寮ですね あまり覚えていないんです。自分が退所した後、結核患者をみなその金太郎寮に移ったと思うんです 木造の病棟かなり傷んでいましたから 

  2. KAN

    on 2013年10月28日 at 08:51 - 返信

    村田さん、おはようございます。
    shuisさんと土曜日に行ってまいりました。
    写っている背景(バック)は昔、竜宮、浦島などがあった場所です。鉄筋の建物の位置にちょうど竜宮寮があったと思います。私たちが見ている方向が金太郎寮です。
    私たちがたっている位置が、学校から保養所に入るT字路付近です。
    「金太郎寮」と「つくし寮」だけは昔のままです。1年ぐらい前はそうでもなかったのですが、ガラスを割られたりしてちょっとひどいことになってます。逆にそれだから中にはれたのですけどね。
    中の写真はちょっとブログでは掲載できませんでした。
    shuisさんご夫婦とは近所の喫茶店でしばらくお話しして夕方帰られました。一宮からこられてたので、帰路が遠かったのでね。初対面でしたが、色々お話ししました。村田さん、また何らかの形でお会いできればいいですね。
    ひろせさんがfacebook登録しましたね。彼は私の入所時半年ぐらいでしたが一緒でした。今回の企画を前に連絡を取り合ってました。また情報交換をしましょう。

  3. shuis

    on 2013年10月28日 at 21:02 - 返信

    先日はお世話になりありがとうございました。このようなブログを立ち上げてくださったお蔭で念願のつくし寮を見る事ができました。KANさんを始め、村田さん、ひろせさん、その他の方々が今後もこのサイトを支えてくださり、もっとたくさんの当時の方々からコメントを頂けるようになれば楽しいでしょうね。いつか同窓会のような事ができればいいですね。

  4. 村田博務

    on 2013年10月29日 at 09:34 - 返信

    kANさん ありがとうございます。このブログのおかげで当時のことがほとんど思い出してきました。自分が入所したのは1969年の2月で退所が1971年3月でした。自分達が保養所最後ぐらいだったんですね。退所してからも何回か友人達に合うために保養所行ってその時に結核患者が金太郎寮に移ったのを知ったんだと思います。このブログでもっと多くの方々からコメントがあればと望んでいます

  5. ひろせ

    on 2013年10月29日 at 09:56 - 返信

    KANさん、shuisさんお疲れ様でした。  そしてありがとうございます。 私にとっては、二十四の瞳の [島の分校] のような所ですから、とても懐かしいです。  いまだに喘息と闘っていますし、長崎に住んでて、距離の隔たりが悔しいです。  KANさん、もっともっとあの頃の仲間と再会を果たせれば良いですね。  私は楠本先生と会いたいです(若く美しかった・・・)。

  6. KAN

    on 2013年10月30日 at 08:49 - 返信

    おはようございます。
    きのう、shuisさんからビデオ映像が届きました。
     結構リアルに写っていますが、草深いので少し解説が必要かもしれませんねん。
     『つくし寮』『金太郎寮』と新館(元結核棟)の中と養護学校です。学校は外観だけです。
    また皆さんにも見ていただければと思っています。
    shuisさんありがとうございます。貴重な資料になりました。

  7. shuis

    on 2013年10月30日 at 21:48 - 返信

    みなさん、どうもありがとうございます。 今回の訪問で撮った写真、動画はいつでも放出しますので言ってくださいね。またKANさんが撮られた写真とは違った角度でもあると思いますので提供します。 自分も実際に行って、景色はずいぶん変わってはいましたがたまらなく懐かしかったです。。せめて画像で感じて頂ければ幸いに思います。

  8. ひろせ

    on 2013年11月6日 at 09:49 - 返信

    KANさん、shuisさん、おはようございます。  Facebookでも写真等拝見致しました。  その建物に暮らしていた者にとっては、廃墟という呼び名はやはり抵抗がありますね。  仲間と共に寝起きし、病気が改善されて、世の中に出て行く我々を後ろから見送ってくれたであろう「つくし寮」を愛おしく思います。  私が卒業のとき4年下の、川畑照太君に「いつか長崎に遊びにおいで」と言うと、彼は「寮暮らしが長いので、乗り物のキップの買い方が分からず恐い」と言ってました。  今は懐かしい思い出です。  shuisさん、画像、KANさんの方から届けて頂けるみたいで、とても楽しみにしています。

  9. ひがし

    on 2013年11月6日 at 20:09 - 返信

    shuisさん、伊東君懐かしいですね、違いますよ東です、貴兄は富永(?)君でしょうか?

  10. よろじ(shuis)

    on 2013年11月6日 at 23:09 - 返信

    ひろせさん、つくし寮が廃墟扱いされたり、まるで幽霊屋敷のように言われたりするのは本当に悔しいし情けないですね。いっぱい思い出が詰まった寮であり学校であったのに。。。
    ひがしさん、こちらも覗いて頂いたんですね。確か僕と同じ68年度につくしにいらっしゃった方ですよね。それから学年下であずま君って人が居たような。。。やっぱり伊東君って当時居ましたよね?確か鼻の高い方だったような。。。
    富永君って方は思い出せないです。。。歳のせいもあり記憶があいまいですみません^^;

  11. KAN

    on 2013年11月7日 at 19:34 - 返信

    ちょっと遅くなりましたが、shuisさんから送っていただいた『つくし寮』内での記念写真で記事をアップしました。またご覧ください
    廃墟写真はいっぱいあるけど、ここでの記念写真は感慨深いものがあります。
    ●何年ぶり?時を動かした記念撮影(大阪市立少年保養所『つくし寮』)
    http://fujii-net.jugem.jp/?eid=274

  12. ひがし

    on 2013年11月9日 at 21:59 - 返信

    よろじ(shuis)さん、そうです東です、当時小五でしたから同級ですよ、そう言えば中筋君って方がおられましたね、藤堂君が亡くなられてたのはショックです、彼とは大阪市大病院から一緒でした、私の入所中にも同室のアタラシ君が亡くなられました、出所後も中学生の女子の方が二人、池で亡くなられたと聞いています、あれから50年近くなります。人生の年月として平凡な50年でしたが、その平凡な年月も遅れなかった彼らの事を想うと後ろめたい気持ちで、とても保養所に行く気にはなりません。

  13. よろじ

    on 2013年11月10日 at 11:20 - 返信

    東さん、そうなんですね。同級だったんですね。記憶があいまいですみませんでした。あたらし君亡くなられたの知ってました。中筋君って結核の同級生ではなかったですか??^^;モリキ君や小田君どうしてらっしゃるんでしょうね?僕は特に1年上の落合君と仲良かったです。退所後つくしに一緒に訪れましたよ^^
    東さんはそれなりの想いを持ってらっしゃるんですね。

  14. KAN

    on 2013年11月11日 at 15:33 - 返信

    東さん、コメントありがとうございます。保養所や『つくし寮』には、人それぞれの思いがありますね。池で亡くなったのは私の在籍時で、同じクラス(中二)の女子と1年生の女子2人の、確か計3人がなくなっています。この時は緊急外出でクラス全員自宅のお葬式にいきました。

  15. fusen

    on 2014年6月2日 at 15:15 - 返信

    30年ほど前に、少年保養所の寮母を3年ほどしていました。
    竜宮、桃太郎、金太郎というのは、開所した時の先生が決めたとお聞きしたような記憶があります。
    結核のこどもが減り、ぜんそくのこどもがふえて、「つくし寮」ができたとも聞きました。
    短大出たての20歳そこそこの私にとって、1年2年留年した中学生は、背も高く、怖かったです。
    自分に向かってこられたとき、たじたじとなりました。療養中のこどもに「この先生、怖がっているよ」と言われたことを、今でも覚えています。3万本あったという桜が今でも忘れられません。桜の開花が近づくとパトカーが敷地内にふらりとやってきていました。
    宿直勤務の大変さも味わいました。
    体重が減って、Mサイズのズボンがボタンを留めたままでもすとんと落ちるので、ミシンで細身に縫った思い出もあります。

  16. KAN

    on 2014年6月3日 at 12:13 - 返信

    fusen様。コメントありがとうございます。fusen様がいらしたのは『つくし寮』ができる前だったのでしょうか?
     この記事を書いた時に、ここにコメント下さった村田さんという方が、「保養所の桜がきれいだった」と言っていたので、この春に桜を見に行ってきました。(私自身は当時は時期的に保養所の桜を知りません)満開でしたが、普通の人が見に行けない桜はさびしいものでした。(一応閉鎖になってますが入れました)
     facebookに掲載してありますので、もしfacebookやっておられるなら、『藤井寛』で検索してみてください。村田さんがコメントと一緒に45年くらい前の金太郎寮の前で記念撮影した写真を添付してくれたので、私も現在の同じ位置の写真も掲載しましたので、また見て頂けたらさいわいです。

  17. 村田博務

    on 2014年6月4日 at 09:38 - 返信

    fusenさん もしかして長谷川先生・合田先生?自分が入所していた時に寮母さんとして入ってきた当時一番若い寮母さんだったからよく覚えています 保養所での花見 桜の木の下で食堂から出された弁当を食べた思い出があります

  18. 住弘 後藤

    on 2014年6月7日 at 07:38 - 返信

    携帯の操作がわからず苦労しています保養所時代の思い出を語り合いたいです

  19. 住弘 後藤

    on 2014年6月7日 at 08:02 - 返信

    Fusenさんてふーこせんせい?

  20. 村田 博務

    on 2014年6月7日 at 16:47 - 返信

    住弘 後藤さん 何年ごろ入所していたんでしょうか? 自分は大阪万博の年にはいてました 結核のかたですか?

  21. 住弘 後藤

    on 2014年6月9日 at 03:24 - 返信

    77~79まで結核で金太に居ました
    織田先生もかすかにおぼえています、たしか中学生担当で会ったとおもいます

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