こころの中の今ものこる『貝塚少年保養所』

 閉鎖後の大阪市立少年保養所(と大阪市立貝塚養護学校)の訪問記を2011年9月にブログに書いたのがきっかけで、色々の方からコメントをいただいたので、その後記などを書いている間に何人かの方々とお友達になりました。その中には『是非もう一度見たい』ということで昨年10月末にその方と再訪問することに(40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)。この本の著者、小説家の南川泰三さんはこの時、小説のために古い時代の(昭和32年ごろ)の保養所方の証言や資料集めをされておられました。

 今回、このブログから出会った、私と同時期(1968年)に結核で入所されていた村田さんが、この南川泰三氏が『貝塚少年保養所』を暮れに発刊され、購入されたとフェイスブックに報告しておられたのを知って早速、自分も堺の図書館で見つけてきて一気に読みました。
 
 貝塚にある『大阪市立少年保養所』は結核予防法による小児結核療養所としてスタート。その後の高度成長の影響で小児喘息が増え、1967年に喘息棟(つくし寮)も併設。1992年に保養所はすべて閉鎖になりました。(貝塚養護学校と寄宿舎は2008年まで存続)
 この本の舞台から一巡り(12年)後の私たちがいた1968年当時には木造の結核棟は小説のままで、入所者もまだ多くいたような記憶です。私たち「つくし寮」生にとって、結核病棟の人とは学校で会える軽度の人だけで、この時期在籍していた村田さんとも当時は出会っていません。
 
 南川さんの小説『貝塚少年保養所』の冒頭にある大阪阿倍野からタクシーで貝塚の『入所』に向かうシーンは、辺鄙だけど美しい田園風景を一部では感じながらも、希望に満ちた13歳の少年ではなく、「落ち武者のような」重い気分を背負った当時の自身の心象風景と重なり、非常なリアリティを感じました。
 
自分の体験と重ね合わせて…
 ここに書かれているエピソードの多くは内容こそ違え、私自身が寮生活で体験してきたこと彷彿させる内容で様々なことを思い出します。これは私の体験の一部です。
 ひとつは、身近な僚友の「様々な形の死」の体験。寮生活しか知らなかった長期入所解放(卒業)された直後の死。また、今でいう“イジメ”問題のあった子の突然のショック死(原因は不明)。そして自分へも死神がやってきて意識が朦朧となるなか、死とはこういう感じかと感じていたこと、そして危篤の知らせで駆け付けた母が面会せずに帰ったと後に知らされた体験など。
 日々の生活では、ここでは書けないけど療養生活とは程遠い事件や、ほろ苦い話では、結核の重症棟にいる女子に一方的に恋心を寄せて、一日に一度だけ昼食時に渡り廊下を渡ってくるのを寮の窓から毎日見ていただけだが、なぜかそれがバレていたのに接触するすべがなかったことなどもありました。また、クラスの女子ら5~6人が集中豪雨後の学校から離れた池に遊びに行って一度に3人が溺死(これ小説の脱走事件を彷彿させる)。この溺死事件の直前には、私に関係する女子との『事件』もあったので非常に整理のつかない思いをしました。
 
 これらのことは日々の生活ではほとんど封印していますが、でも思春期のたった1年未満のこれらの体験は濃厚ではあったけど、今考えると、純粋な精神のなかのほろ苦い記憶でしかなく、本当はそれなりに結構楽しいものだった筈なのです。ただ良い意味でも悪い意味でも後の「生きること」を考える原点になっているのは確かで、これからも、まだ取り組み続けたい課題です。
 
 この小説『貝塚少年保養所』は私たちにと関係する一時代の歴史の『確かな証言』記録です。


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